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累積KJ法 R2ラウンド 「人間味ある矛盾を芸術や政治経済へ昇華させるには?」(第1章1項2節)/大塚

第1章 陰徳と転生
 第1節 労働と慈悲心、相互扶助
  第1項 お金を社会還元し、情動をも分配する
 ▶第2項 利益追求と社会貢献の両立
 
第2節 転生を祈る
 第3節 まとめ

目次

(前回は、エコノミーとは元来どのようなものかについて述べた。昔の日本人が講で学んだように、資金や功徳などを占有せず社会に還元させることで、利益のみならず情動をも分配する、エコノミー本来の語義を体得できるという話だった。そして、お金がそこかしこに生き生きと流通しなければ、社会の生命機能は停止してしまい、最終的に国内経済が破滅に至って、口座に貯めていた貨幣の価値もゼロになってしまうと主張した。)

今回は、個人の預貯金というミクロな視点から企業の経営というマクロな視点に移る。日本と海外の比較をすると、アップル社と日本の大企業との業績の差は、能力や効率性でなく収益を上げる商品と仕組みの有無にある。

時価総額世界一のアップル社があります。もうひとつ、歴史と伝統があるのだが業績が停滞している日本の巨大企業X社(あえて特定しません。あなたの思い浮かぶ会社を当てはめてください)があるとします。アップル社と日本のX社の社員をそっくりそのまま入れ替えたとすると、X社の時価総額はアップル社並みになるでしょうか。もちろん、そうはなりません。理由は社員の能力や効率性、頑張りなどの差ではありません。X社には儲かる商品がないからです。利益を出すには、まず儲かる商品があること、そして儲けを生み出し続ける仕組みと仕掛けが必要です。日本の多くの企業に圧倒的に欠けているのはこの点です。

山崎将志2018『「儲かる仕組み」の思考法 いま、利益を出す会社は何をしているのか?』
日本実業出版社、pp.3-4

(日本の大企業の特徴として、自分たちの事業へ対抗するような優秀な中小企業が現れた場合、自らの既得権益を守ろうとそれらの中小を潰そうと試みる。一方でアメリカの企業はむしろ、それら中小ベンチャーの株主となって、自由に事業をやらせつつ業績を伸ばすよう助け、その株式の利益を得ようとする。)

(この日本の話は、高度経済成長期にモーレツ社員だった人が、企業立て直し時に実際にトヨタやNTTとやりあって体験したことらしい。投資などでお金をふやすという教育がしっかり根付くアメリカならではの考えであり、とにかくお金を口座に預金しようとする日本人が真似しようとするなら、そのマインドを根本から変えないと実現できないだろう。アメリカでは子供の頃から、自信を持つこと、自らの意見を持つこと、試行錯誤をすることなどが大事だと教えられており、そのような国民性が土台にあるからこそ、他人のやっている事業を信じて任せるという姿勢が自然と培われているのかもしれない。和をもって貴しとする日本人がそのまま真似できることではないのではないか。そのように出る杭は打たれてしまう日本の状況下では、閉塞感が充満し他人のためにお金を預けてやろうと言った心意気は萎んでしまう。)

(とはいえ日本にもそういった他人に任せる心意気は無かった訳ではない。明治時代から活躍し、日本右翼の源流ともいえる玄洋社に属した杉山茂丸や頭山満は、「自分に金の無い時にこそ、他人にお金を貸すべきだ。そこにその人の本当の人間性が出る」と語り、孫文やチャンドラボースなどのアジアの革命家へ援助を惜しまなかったという。また地域の酒屋の大将は、その地方の芸術活動を金銭面で援助し、一種のパトロンとして粋な羽振りの良さを見せていたという。ただし、これらは出資して自らも儲けを得ようという意図はなく、利益にはならないが社会のためになる公的な寄付のようなものである。やはり資産の増殖は苦手で、お金の投資となると日本人はどうしても漢気ある慈善活動もしくは講のような相互扶助活動になりがちなのだろう。しかも現代では、日々の生活に汲々として、なり振り構わない他人への金銭的援助が影を潜めているようにも感じられる。)

(しかし、もともと日本の商売哲学には「自らを利せんと欲すれば、まず他を利せよ」といったように、利他の精神が根底に流れているはずである。そのように考えると、企業へ株式投資をしその利益報酬を得るのは利他の哲学と矛盾しないだろうのに、なぜか日本では積極的に試みられてこなかった。利他の思想には自己犠牲が最初につきものであり、その点でいったら強烈な自己形成がされたアメリカ人より、調和を大切にする日本人の方が馴染みやすいだろうのに不思議である。海外で発達した株式会社や投資の仕組みが日本で受容された際に、外側の表層的な部分だけが移植されて日本文化のコアが置き去りにされたのだろうか。)

(このように投資という行為が、日本文化の基層に根を下ろすことなく、表面的なものに終始している。)そして例えば、投機行為のスパンのズレによって、二次交通や宿泊業と本格的に協働できず、着地型観光は収入が増えないということも起こる。

第二に、旅行業とは「運輸(特に旅行先での二次交通)と宿泊とからめる」ことをしなくては、なかなか収入が増えない。ウォーキングツアーだけであれば、何も旅行業を取得しなくてもできる。いざ社会起業として始めても、この「旅行業の壁」を越えられないでいる。当然、運輸業や宿泊業と連携したり、契約したりする必要があるのだが、そのひと手間をかけられない。

井門隆夫「着地型観光は本当に「儲からない」のか」(https://kankou-redesign.jp/pov/1074/)
最終閲覧日2019/04/09

(というのも、二次交通や宿泊業は日々の稼ぎを得る短期的な営業活動である一方、地域の価値を高める着地型の観光業は長い目で見たまちのブランディングであると考えられるからだ。その間のギャップを埋めるために前述したような中期的に結果の出る投資活動を行うのは、経営を安定させる面でも重要だ。着地型観光を担うDMOなどが国からの補助金に頼るだけでなく、自ら稼いでその利益を地域の企業に投資するなどして還元する。それによって地域経済の好循環が生まれる。名も無い地方が観光の目的地として選ばれるようなブランド力を得るためには、その地方に根ざした事業者それぞれが人を集めるようにならなければいけない。DMO組織ひとりが努力しても効果は目に見えている。毎日の営業でキャッシュを貯めて地域にお金を還元することで、他の事業者全体を育てる必要がある。)

(DMOという考え方も海外の事例をそのまま真似したものに近く、名前のみが先行して日本国内で喧伝されている。その点で言うと、地域の慈善活動に根付いた投資活動として、アメリカイリノイ州のビアーズタウン・レディース投資クラブは参考になるだろう。また日本でも米相場などの投資は昔からあり、そこで活躍した本間宗久は日本らしい投資行動を考える際に学びたい人物だ。)

また短期的な利益と長期的な見返りの両方を追求するからこそ、同じ売上でも、社会企業としてみるか、利潤追求の商売としてみるかで、着地型観光が儲けているか否かは変わる。

まず第一に、着地型観光とは一種の「社会起業」である。とりわけ、地域の女性やシニア、Iターン者や在日外国人といった住民の方に主体的にかかわってもらい、交流人口増加を(できれば定住人口増加も)果たすことにより、地域の生産性を底上げするのがその特長である。着地型観光で、例えば、3,000円のツアーが10人×年間50本=150万円売れたら大成功である。そうしたツアーを年間10本売って、1,500万円の年間売上。原価を50%と仮定して、売上総利益750万円だとしよう。この数値を見て、儲かったと思うか否か、おそらく、既存型観光従事者であれば「こんな数字では人件費も出ない」と思うのではなかろうか。一方、社会的ベンチャーや副業で、もしこれだけ稼げれば相当儲かったことになる。その違いを埋め切れないでいる。

井門隆夫「着地型観光は本当に「儲からない」のか」(https://kankou-redesign.jp/pov/1074/)
最終閲覧日2019/04/09

(ある意味でアンビバレントな存在であり葛藤に苛まれるDMO組織にとって、自らの利益を求める利己的な活動と地域の底上げを図る利他的な行為とを、矛盾せずに両立させるのは喫緊の課題だ。ハコモノ行政の失敗を反省してDMOなどソフトの開発に邁進している政府であるが、そのDMOが地方の有名企業の会長や観光連盟の会長などお偉いさんで固められた組織委員会から成る現状では、利他的な行動は実現されにくい。ビアーズタウンの投資クラブのようにただの一般人が集まって何事かを成す方が、地域の活性には向いているのではないか。)

ここで述べたかったのは、日本の大企業や着地型観光は、アップルや追加メニューの豊富なラーメン店のように利益をあげる商品と仕組みがなく、業績が悪いということだ。(その根底にあるのは、お金を育てて殖やすといった現代の投資活動が日本文化の基層に根付いていないことが挙げられる。バブル崩壊の反省もあるのだろうが、投資をすることがギャンブルと同一視され、人々はむしろお金を安全に銀行口座へ預けたがる。種を播いて育ててきた農耕民族の日本人にとって、長期的な投資信託などは文化的にも親和性はあるように思える。ベンチャーキャピタルやエンジェル投資家のように、ユニコーンなどと呼ばれるめぼしいベンチャー企業へお金を投資し自由に成長させ最終的に利益を得るのは海外では盛んだが、日本では活発でないようだ。ただし、若手革命家に資金援助したり地域芸術のパトロンとなったり、日本でも個人がお金を分け与えることが行われてきたのは事実である。しかし、それは金銭的な見返りを求めたものというよりは慈善活動に近く、投資のようなお金の増殖を目的とはしていなかった。)

(一方で、江戸時代の本間光丘が自らの商店の稼ぎを投じて砂防林を作るなどを例として、見返りを求めない社会貢献によって日本が成長したことは確かである。短期的には損であるが、長い目で見ると地域や藩の信用を得て事業を持続させることにつながる、「損して得をとれ」といった姿勢は見習うべきだ。)そして、それは国内DMOのように利潤追求や社会貢献のどちらも対応可能ということでもある。まさにお金を所有物でなく公共物として社会で生かす仕組みが求められる。

こうして見てくると、日本は稼ぐシステムの構築に弱いが、講の精神を受け継いで、利益や情動を社会へ還元する仕組みには親和性がある。(ただ現状の日本では、講の考え方は廃れて見向きもされにくく、人々は私欲に絡められ吝嗇の気が濃くなり、老後の心配もあって稼いだお金は大切に預金口座に貯めるのが主流となっている。日本の企業なども同じで、利益をあげても内部留保を肥やすばかりで、さらに将来有望なベンチャー企業が既得権益を守ろうとする大企業に潰されてしまうことも多い。しかし、社会状況の変化の波は激しく、凝り固まった大企業はその潮流に耐えきれず倒れてしまい、経済に大きな打撃を与えることになる。一方で、アメリカなどでは投資クラブなどを通して地方の普通のおばあちゃんさえ投資に馴染みを持っており、企業も見込みある中小企業へ投資し伸び伸び育て、その株式で稼ぐなどしている。さらには、地方のベンチャー企業がお互いにビジネスのエコシステムを作り上げようとすることも珍しくない。そのエコシステムでは、企業同士がうまく刺激し合い、かつ助け合い、一つの企業だけではできないより大きな成果が目指される。自然との調和を愛する日本であればさらに先を行って、ビジネスだけでなく草花や川や木、動物や精霊、あの世なども含めた包括的な共存共栄のエコシステムを実現することができるのでないか。禅者である鈴木正三が「職分仏行説」で述べる、「一鍬一鍬」と畑を耕す動作が生活の糧を得ることだけでなくそのまま仏道修行につながっていると言うように、日常的なビジネスの一挙手一投足がそのまま世界につながるといった境地である。)

そのような例として、福田英子は、自活のための労働を大切にしつつ、やがて鬼人も服従せしめる無私の大事業を遂げんとしたことが挙げられる。

職業に貴賎なし、均しく皆神聖なり、身には襤褸を纏うとも心に錦の美を飾りつつ、姑らく自活の道を立て、やがて霹靂一声、世を轟かす事業を遂げて見せばやと、ある時は髪結となり、ある時は洗濯屋、またある時は仕立物屋ともなりぬ。

福田英子1983(初版1958;初出1904)『妾の半生涯』岩波書店、p.40

広き都に知る人なき心易さは、なかなかに自活の業の苦しくもまた楽しかりしぞや。

福田英子『妾の半生涯』、p.40

己れ炊事を親らするの覚悟なくば彼の豪壮なる壮士の輩のいかで賤業を諾わん、私利私欲を棄ててこそ、鬼神をも服従せしむべきなりけれ。

福田英子『妾の半生涯』、p.50

(職業を貴賤で分けず、髪結や洗濯屋、仕立物屋などで自活の道を立てつつ、やがて世を轟かす事業を遂げよと彼女は言う。日常の所作や労働と偉大な事業とが分け隔てなく結びついており、職即生、生即職といったような、究極的にワークライフバランスのとれた理想型である。そこでは自らの稼いだお金は、そのまま地域につながっており、わざわざ「投資」をしてお金を移動する必要もない。しかし現代では、仕事と生活は切り離され、細々した日々の作業や労働は無駄なものとして避けられている。それは、時短家事やAIによるスマート化が人々の注目を集めていることからも分かる。そのような非生産的で効率の悪い仕事は機械に任せて、人間はもっと創造的な営みをすべきだと言うのが、先進的な人々の意見だ。確かにそれによって、人口減や食糧難などの危機的な状況が救われることになるかもしれない。創造的な仕事に邁進することで、これまでに想像さえできなかった境地へ人間が到達するかもしれない。しかし、煩雑な肉体労働や作業も人間を形作る一部であり、それを失っては全体としての人間性というものが崩壊してしまう。まさに現代人は、自分という存在を世界に位置付けることが難しくなってきている。その不安感から稼いだお金も口座に蓄積して将来の安定性を確保しようとする。海外旅行やインターネットの爆発的な拡大で世界が近くなった分、自らの存在が寄る辺のない空虚なものに感じてしまい、どこそこと魂が彷徨っている。)

この節で述べてきたことは、これまで日本人は生きるために稼ぎつつも、私利私欲を離れた慈悲の心でもって、分を超えた利益は相互扶助として社会へ還元してきたとまとめられる。

(一方で、現代では生きるための稼ぎが、地道な肉体労働から効率的な事務作業、さらには生産的な創造的作業へと移行しつつある。そのように、これまでの煩雑だが人生の全体性を保っていた細々した日常業務が無くなっていくと、生活と仕事の遊離が進んでしまう。すると人々は自らの存在を社会に結び付けづらくなり、生きることに不安を感じ出す。そして自分さえ良ければいいと私欲に絡め取られ、稼いだ利益をせっせと蓄積することになる。相互扶助の意識は薄れ社会にお金が還元されにくくなり、貨幣の流通減少によってコミュニケーションも滞りがちとなる。国の経済はどんどん萎んでしまう。また個人だけでなく企業も、ドローンやAIなどの技術を駆使して業務効率化は進めても、自分たちの企業が社会や地域にどのように関わっているかの哲学の部分を突き詰めることは少ない。)

(確かに、使い捨てプラスチックやフードロスの削減に取り組む企業は増えているが、それも会社の本質的な存在意義を問い直して自らオリジナルに編み出した行動なのかは疑問である。このように、哲学を欠いたまま生産性や効率化ばかり求め、働いている人たちの生活と企業との間には乖離が生じる疑心暗鬼になった企業も自らの存続を憂慮することとなり、目先の利益ばかりを求め内部留保も増やし、個人同様に社会への還元は減ることになる。とてつもない額の店の利益を投じて防砂林を作り、地域と自らの商店の継続的な発展を企図した江戸時代の本間光丘とは大きな違いがある。また講の習慣として昔は頻繁に行われていたお金の融通や投資も、現代では株式投資やFX、仮想通貨に変貌している。しかも、最近の投資は日本文化の根底に結びつかないまま、海外から表層的に輸入された実践のままである。そのような投資が、昔のように他人を助ける相互扶助としてでなく、自分の蓄積している財産をさらに富ませるという利己的な動機に基づいている点も変化している。とはいえ利己的な動機が人々の生きる指針を導いていたのは現代に特有のことではない。これまでも信仰に現世利益など自らの安寧を求めてひたすらに祈っていた時代があった。その時代と現代との間にはどの様な違いがあるのだろうか。次回に続く。)

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