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遺構が

 年末に大平作業場おおだいらさぎょうじょう跡に行った。
 大平作業場というのは、パリ外国宣教会のド・ロ神父が外海そとめ地区の主任司祭として司牧をしていた1884(明治17)年ごろに開いた、農園のそばにある建物の遺構である。

 以前、何度か訪れたことがあって、そのときには煉瓦壁のみが残る、まさしく遺構だった。ここ数年、この大平作業場跡の保存工事がおこなわれることは聞いていて、昨年秋にオープニングイベントがあったのも耳にしていた。
 オープニングイベントのちょっと前、Kさんと訪ねたとき、工事途中の様子を見ておどろいてしまった。私の記憶にある、作業場跡の姿とはまったく違っていたからだった。

 この年末は、いつもお世話になっている地元の方(TKさん)と訪ねた。作業場跡の上にある資材置き場に、石を打つ男性がいた。TKさんは顔見知りらしく、年末に気張るなあと話しかけていた。

 作業が遅れているのだ。
 オープニングイベントはおこなわれたものの、工事はまだまだ、完成には程遠いように見えた。
 屋根がかぶせられて、ガラスなどでできた壁に覆われた遺構の全体を見て胸が痛んだ。
 そばに寄って、残された煉瓦壁をじっくり見て、さらにかなしくなった。以前は、煉瓦の継ぎ目などから雑草が生え、経年を感じさせるいい壁だったのに、どうやら煉瓦を積みなおしたみたい。雑草は取り除かれて、土ぼこりなども払われ、継ぎ目も新しく見えた。

ド・ロ神父が愛馬をつないだ金具

 あの、遺構がわかるだけの姿のままにしておけばよかったのに。と、おもってみても遅い。

 ここは修道会の所有である。作業場跡の脇には茶畑があって、そういうのの手入れや日々の清掃などは、修道会と地元信徒でおこなわれていたらしいけど、この施設が本格的にオープン(フィールドミュージアムやキャンプサイト?)したら、そういうのの管理って誰がやってくんだろう。TKさんはそういうことを口にしていた。
 この大平作業場跡の他に、ド・ロ神父が残したもののうち、同修道会が所有する割合は大きい。それらの名義って、どんなふうに扱ってきたんだろう、と妙なところが気になってTKさんに訊いてみたら、ド・ロ神父は土地を購入する際(そのほとんどが私財である)、すべてその場所の責任者の名で登録したらしい。
 教会の他に開設した、授産場や救助院などの社会福祉施設や、畑に付帯する作業場(跡)などは、婦人たちのなかから選ばれたリーダーの名前で登録し、修道会の成立にそって修道会名義に改められた。らしい。

茶畑

 長崎より先に教会が建った横浜では、パリ外国宣教会は購入した土地に建てた物件を貸して資金としていたようなことがどこかに書いてあったので、当時のそういう、土地や建物の所有や名義がちょっと気になっていたのだった。
 もっとも、長崎では大浦の名義関係の詳細もわからないし、外海周辺のこともTKさんから聞いただけのことなので、いまだにわからないことのほうが多いんだけど。

 先述した、石を打っていた男性は何をしていたかというと、作業場跡のそばに新しくつくられる建物や、設備に使う積み石を砕いて整えていたのだった。ちょっと離れた琴海あたりから運ばれてきた石を、ドリルや石割で地道に砕く、その手をとめて少し雑談に付き合ってくれた。地元の石(温石おんじゃくという)より硬く扱いにくいと言っていた。
 歴史的な遺構として、保存工事がよろこばしいものかどうか疑問なうえに、このような地元の方の影の力添えをおもうとなんだかやりきれない(大晦日ですよ)。

積みなおされた石と煉瓦

 以前の、いい姿をしたころの大平作業場跡の写真を探したけれどろくなものがなかった。
 いまさら後悔しても遅いけれど、しっかり撮っとくんだったよなあ。

2018年ごろ

*

今日の「いつもどおり」:地震と津波の発生で日本海側が大変です。こうなると、現地の様子が気になったり何かしたいと考える人が大量発生するけれど、こういうのは起こっている最中には、何をすべきかがはっきりすることはほとんどない。
だから、というのでもないけれど、いま私たちができることと言えば「いつもどおり」なのかな、とおもいました。

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