Anniversary of Father de Rotz's deathード・ロ神父の命日ー
1週間前の11月7日は、ド・ロ神父の命日でした。その日、用事があって午後から外海地区に出かけていました。先月その近所で撮った写真もそのままにしていたし、命日までにちょっとした記事にしたいな、と思いつつ、1週間が過ぎてしまいました。
しっかりした記事を書く余裕がないけれど、これ以上日をあけると機会を逃すので、記念ということでちょっとだけ書いて、写真をつけておきます。
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ド・ロ神父(Marc Marie de Rotz)は、1840年3月27日にフランスのバイユー近郊、Vauxという村で生まれました。1862年9月23日にパリ外国宣教会の神学校に入学、1865年6月29日に司祭に叙階され、サン・ジュリアン・ド・ケアンの司祭として2年間奉仕します。
1868年4月15日にプティジャン司教とともにImperatriceという船で日本にやってきました。
長崎に来てからは、石版印刷の仕事に従事しながら、明治の迫害のなかにあった信者たちの世話をし、屋根裏部屋を仮の礼拝堂としてミサなどの秘跡をおこなったといいます。1871年には横浜に居を移し、サン・モール会の修道女たちといっしょに若い修道女の教育をします。その教育施設の建設指揮をしたようですが、その仕事は横須賀工廠のフランス人技術者に協力してもらいながら、中国人を工員として雇ってのものだったみたいです。工事中にちょっとしたトラブルがあり(おそらく資材運搬に関わるもの)、その様子がイギリスの新聞『パンチ(*)』に批判的に取り上げられたといいます。
1873年に禁教令が解かれると、ド・ロ神父は長崎に戻り、祈祷書を石版で印刷するという仕事に追われました。翌年、赤痢が流行し、医療の知識をもっていたド・ロ神父は長い迫害の旅から戻った信徒たちを含む長崎の人びとの治療にあたりました。
1875年からは神学校の生徒の指導や、印刷所の設置と書籍の出版に精を出します。この頃には、日本国内に印刷所・職人が増えてきていたこともあり、印刷所の仕事に区切りをつけて外海地区の主任司祭となるよう任命を受けました。過労がたたったのか、ド・ロ神父はときおり血を吐くほどの健康状態で信徒たちの司牧に奉仕したそうです。
1880年にはサルモン神父が助手につき、以後7年間は協力しながら働きます。1882年には出津教会を建て、夫をうしなった女性たちの職業訓練所と孤児のための施設をつくりました。そこでは機織りや土地の開墾をはじめ、さまざまな事業がおこなわれました。ド・ロ神父はこの仕事を聖ヨセフの保護下においたことから、ヨゼフ会と呼ばれました。
ド・ロ神父は来日して以来、物理的な仕事に精を出し続けてきたため、語学は後回しになっていたようです。不慣れながらもユーモアたっぷりの日本語で、土地の人たちとコミュニケーションをとっていたと伝わります。のちに、外海の黒崎という地区出身の中村近蔵氏に多くを頼っていました。信徒たちとともに大野教会を1893年に建てています。
1911年1月に著しく体調を崩しますが、一旦体力を取り戻し、大浦の司教館の建設に従事します。その仕事中の事故で持病が悪化し、1914年11月7日にド・ロ神父は息を引き取りました。ド・ロ神父の遺体は出津に運ばれ、野道の墓地に眠っています。
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先月たずねたとき、ド・ロ神父の墓碑に見慣れないものがありました。2枚めの写真の、プレートです。帰天110周年の記念なのか、なんなのか、いつもお世話になっているTKさんに聞いた気がしつつよく思い出せません。こんど、あらためて訊いてみようとおもいます。
[参考]パリ外国宣教会IRFAデータベース irfa.paris missionnaire rotz de marc
(*)『パンチ』というのはイギリスの風刺漫画雑誌らしいです。1841年に創刊し、1992年に最終号をむかえた長命の雑誌だったそう。