動いているのは雲か、我か
朝や夜が、すこしずつ涼しくなってきていますね。きょうは、仕事のことでおもしろくないことがあって、こころがささくれだっていました。
夕方の空には薄くておおきい雲が青空いっぱいに広がっていて、秋がくるんだという気配がぷんぷんしていました。帰宅して、ベランダで空を見上げると、その薄い雲がふわーっと動いている。
いっしゅん、雲じゃなくて地面ごとわたしが動いているように感じたんですね。それで、タイトルの、これは伊丹十三さんの文章に出てきたせりふだったとおもうけど、これが浮かんできました。
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さいきん本を読むというと、ちょっと学術的なものを読まないといけなかったりして、たのしむほうのを読むことが少なくなっています。それでも週末には時間をとって、読みたい本を読むということをまとめてやりました。
アメリカの理論物理学者のひとが書いた、680ページほどもあるものです。「時間の始まりから、終末といえそうな何かに至るまで、宇宙を詳しく見ていこう」と著者がいうこの本は、いちおう専門的になりすぎないようにとの配慮のもと、ていねいに書かれてあります。
それでも、ときどきページを戻って、わたしのささやかな頭脳のなかで反芻させながら進まないと、すぐに迷子になってしまいます。
いま読んでいる章で意識のことが取り扱われていて、意識のふしぎさをあらためてというか、知らなかったことも含めて、注意をひかれています。
きょうのカリカリしたのだって、できればもたないで過ごしたい感情や意識が含まれていて、だけど現実にはもちたくないからといってまるっきり無視もできない、コントロール不可なこういうのがどうして「ある」のか(あるいは「ある」といえるのかどうか)。
そういうことを、本を読むのとおなじささやかな頭脳で考えてしまうから、よけいに道草をくってしまっている気もします。
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このごろ夜に、緑茶を飲んでいます。ある道の駅に売っていたもので、そのぎのお茶です。わたしはお茶のことをあれこれ知らないのですが、おいしい。緑茶のカフェインはコーヒーよりずっと多いと聞きますが、夜に飲んでもしっかりねむれます。
以上、どうでもいい近況(?)でした。