たまには暗い部屋の中で
ちょっと前の記事に書いたけれど、先週は上五島のあたりに行ってきて、週末には別のところに行くことがあったり、台風がやってきたり、した。
その辺りで色んなことを考えたり、日常があったり、電車の吊り広告のコピーに違和感を感じたり(これはいずれ書きたい)、道端で街路樹に手を伸ばす小学生の男の子の姿とか、視聴している『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』で目にしたジャバ・ザ・ハットのおかしな姿とか、手に本麒麟の缶を持って飲みながら歩くおじさんとか(帰ってからじゃダメなのか?)、とにかくあらゆる種類の記憶だったりどうでもいいようなものが、目を開けても閉じてもちらついてしまう。
たくさんのやりたいことと、たくさんのやらなければならないことと、やりたい気もちとやりたくない気もちとがごた混ぜになって、帰宅後に何にもしたくなくなった。それで、ちょうどいい具合に、先日ふいに手元にやってきた曲を聴こうとおもった。音源を入れたばかりのタブレットを、頂きもののBose Mini Ⅱ SE SoundLinkスピーカーにBluetoothでつないで、部屋の電気を消して、ベッドに横になって、手触りのいいハンドタオルを閉じた目の上に載せた。
環境が整ったことでいよいよ流すのは『チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調「悲愴」OP.74(Symphony no. 6 in B minor "Pathétique", Op. 74)』です。
私は音楽のことは(も)ほとんど何も知らないけれど、聴いていてやっぱりこれだけのものだからか色んなものが出てくるというか動くというか、すごかった。何だかわからない、赤黒くてぬるぬるとしていて生温かいかたまりみたいなのが、ペッと出てきて、思わず手のひらで受け止めてしまって、びっくりして取り落としそうになる、みたいな(意味がわかりませんね)。
これだけのものが生み出せるというのは、一体どんな生活なんだろうとおもってしまう。人生で起きた素晴らしいことも、こんなこと起きなければよかったのにという類のものも、どちらでもないその間にグラデーションしているありとあらゆる物事をぜんぶ引き受けた人にしかできないこと、そういうことを考えた。
自分のなかから出てきた、生温かいかたまりを検分する力も出なくて、フィナーレの終盤には意識を失っていた。はっと気づいたら部屋のなかがしーんとしていた。息をしていたかどうかもはっきりと記憶していない。
どうして今、これが手元に来たんだろうな。どうしてあの人は、あの日この交響曲を流したんだろうな。そんなことまで考えてしまう。
そんなことを考えている時間があったら、他のことをした方がいいような、でもやっぱり気になるような、そういう思いを感じながら、まあ星の配置がそうなってでもいるんだろう(てきとう)というところで片付けてしまうことにする。
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今日のプチ情報:トップ画像は冷水教会の脇に咲いていた極楽鳥花です。冷水教会って鉄川與助氏の建築って知っていましたか? 私は知りませんでした。
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