ななし
10月は(カトリックにおける)ロザリオの月だな。と、おもって、なにかそれに関連したことを書こうとおもいつつ、日が過ぎていきます。ああ。
このところ、あることについて、心のなかにわだかまっていることがある。四六時中というわけでもないけれど、ときどきおもいだして、「・・・。」みたいなキモチになるとか、そういうことです。
そういうものは、他人にむかって出してみせるようなものでもないし、出してみたところで何かがあるようなことでもない、ごく個人的な問題だから、ここに書くことはしない。昨夜は、他人からうけた質問のことを考えていた。質問をうけたときには、とっさの(わりにてきとうな)返答をしたのだけれど、おもい返していると自分のなかの核心にふれた気がした。胸のうちからむくむくと思考のほうにあらわれたソレを、点検というかさぐるようにながめていて、そのなかに「祈る」ような事柄がふくまれていたあたりから、ふと、おもったことがあった。
世の中には世界宗教などとよばれる代表的な宗教があって、そこから派生したあらゆる宗教(および宗教的なもの)がたくさんある。けれど、宗教心というか、そういうのはもっと、ごく単純かつ素朴なもので、なまえもないような、したがってカタチもなにもないものだっただろう。と、いうのを実感というか、した。いつごろからあったのか想像もつかないソレは、人間が文字やことばを獲得して進化する過程で、他のものと同じようになまえを必要としたり、説明をもとめられたりして、体系づけられていった。と、おもう。
ほんらいは、説明できるようなものではない(あるいはする必要がない)ソレを、いまみたいに扱ってしまっているけれど、宗教あるいは宗教心、そう名づけられてしまったものの重要なところは、教義とか体系とかではない。はず。
こんなことはもう、どこかで誰かがいっていることかもしれない。わたしの胸のうちのことと同じで、わざわざ書き出す必要もないものだろう。だけどただ、そう感ずることがあって、それが妙にリアルにおもえたことだったから、書いてみた。
写真は、先週たずねた外海で撮ったもの。紅いマンジュシャゲには個人的に、あんまり好ましい印象をもっていない。強めの風に叩かれた海面の模様がきれいだった。ロザリオの聖母に捧げられた教会のマリア像が、ミサにむけて日ごろの汚れをぬぐわれてほほえんでいた。
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別の教会では、教会学校があっていた。シスターのひとりが「もうじき子どもたちが来ますので」とその日の当番のIさんに声をかけ、教会に入っていった。しばらくすると小学生たちがわらわら(6人くらい)教会にむかって歩いてきた。
これから、ロザリオの祈りをするのだ。