ド・ロ神父の悪魔祓い
宗教のことを考えていて、ふと、長崎の外海地区でいろいろと貢献をしたド・ロ神父にも悪魔憑きの話があったな、とおもいだした。そのエピソードが書いてあったのは、1965年に出津教会が発行した冊子だった。
それは明治13(1880)年ごろのことで、樫山という村の15歳ほどの娘が奇妙な症状をみせるというのでド・ロ神父が呼ばれた。ナセという名のその娘は、自宅にいながら漁に出た父親の様子を話しだす。父親が戻ってたしかめてみるとそのとおりだった、とそんなふうだった。
ド・ロ神父が出津から樫山まで船でやってこようというときにも、海上のド・ロ神父の様子を口にし、パーテル(司祭のこと)がくるといって着物をかぶってしまう。ド・ロ神父はナセをみて、その場に集まった信者たちに祈るように言い、自身も祈ったあと聖ベネディクトのメダイをナセの目と口と鼻とにあてて重ねて祈った。
するとナセは倒れ、同時に黒い影が戸口から出ていったかとおもう間にすっかり全快した。
この話を思い出すのと並行して、エクソシスト(悪魔祓いを行う司祭)関連の本を探して図書館で借りてみた。それはバチカンを含むイタリア国内で、エクソシズム関連の事柄を取材したノンフィクションだった。著者は日本人である。
本の内容は興味深いことがたくさん書いてあって、それらについてはまたいずれ書けたらいいなとおもっているけれど、この本によるとエクソシズムと呼ばれる悪魔祓いは教会法にもとづいた任命制で、カトリックの七つの秘跡に次ぐ準秘跡に位置付けられたものだという。第二バチカン公会議(1962~1965年)までは司祭が身につけることが必要な課題だったとある。
先のド・ロ神父の時代には、またエクソシズムの伝統が続いていた時期ということになるから、こうした事態も念頭におかれていたのかもしれない。
ところで、このナセという娘の悪魔祓いの場に居合わせた信者のなかに、島田喜蔵、深堀喜四郎というのちに司祭になる2名がいた。さらにこの島田喜蔵という人は、大浦天主堂に併設された神学校で学び、浦上四番崩れのときに長崎を逃れて香港の神学校に送られたうちのひとりであった。熱病などにより当地で亡くなる学友や、病気帰国も何名かあったなか、日本帰国後は横浜と長崎で学び、司祭になった。横浜の教会では、神学生の他に大名や旗本の子弟が学んでおり、そのなかには原敬もいたそうである。
島田神父はド・ロ神父の悪魔祓いをみてどうおもっただろう。香港の神学校ではこうしたことも教わったのだろうか。いろいろおもってみたところでわかることではないけれど、ちょっと気になっている。
私が読んだのは『エクソシストとの対話(島村菜津)』という本で、ド・ロ神父の悪魔祓いのエピソードは『外海町誌』や『人物による日本カトリック教会史 : 聖職者および信徒75名伝』などに書いてある。あとの2点は国立図書館デジタルアーカイブで閲覧することができる。
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すこし前の記事に載せた写真の、足場にかこまれたマリア様のご像、塗装がおわったというので先週訪ねたついでに写真を撮ってきた。
写真としては、足場のかかった状態のほうがすきかもしれない。