英語教師はプロとは限らないかもしれない話
そういえば、高校の時塾の先生が、Petをペットと訳すなと言っていた。ペットは外来語だからと。だから愛玩動物と訳しなさいと。
塾界隈では有名講師でもあるし、当時は言われるがまま、なるほど確かにと納得して赤で直したが、大学生になって海外に行ったり異国の人々と過ごしたり、外国で生活したりするにつれて、気づいたことがある。日本や韓国などアジア地域(特に東アジア)では確かにペットは愛玩動物の傾向が高いが、欧米諸国では比較的パートナーやバディとしてみられている気がする。結局のところ人によるのは言うまでもないけれども。でもどちらにせよ、「愛玩動物」ではない可能性が50%の確率で在るのにもかかわらず、無理に一単語の日本語に訳そうとするのは翻訳として適切ではなかっただろう。
外来語とはいえ、ペットは日本語としても、人間と同じ屋根の下で生活する動物を表すのだから適切であるし、愛玩動物という言い方よりも、より多様な関係性を言い表すことができる適切な言葉、訳なはずだ。無論、ペットとpetの発音は同じではない。
たとえオリジナルな日本語での翻訳にこだわったとしても、もしその英単語が日本語になければ、その単語を日本語の一文で訳せばいいだけの話だ。
とにかく、しっかり目で見てその地を知らないと(これは個人間でも)感覚を柔軟に入れ替えることはできないし、というより合わせることができない(それはどちらか一方が合わせようとしてもうまくいかないわけで)。活字ばっかり見ていてもニュアンス、雰囲気は理解できないし、本当の意味で受け入れることもできないと思う。
異文化理解それ自体を理解したつもりになってしまうことがこういう、言語同士や理解の齟齬を生んでしまうのかなと思った。
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