恐らくは永遠の憧れ
今日授業中に貧困に関する本を読んでいて、猛烈に思ったことがある。
私の永遠の憧れは、最低限の物質、サービスから、最大限の幸福を感じること。
質素で、清廉で、贅沢なんかじゃない。
それでいて幸せでい続ける事。またはこんなもんでしょ、と思って生き続けること。
都会では無い場所にか住んで、別に贅沢なご飯は食べない。けどしっかり自炊をして健康的な食事をとる。たまにお散歩をする。図書館や地域の場にお出かけする。テレビを見たり、音楽を聴いたり、ラジオを聴いたり、本を読んだり、料理をしたり。やる事はしっかりやって、ゆっくりコーヒーや紅茶をいれて休憩したり。それでいてたまに外食をする、お友達とお出かけをする。それに確かな幸福を感じられる。そういう生活、人生に憧れる。
仲がいい人が1人そんな生活をしている。なるべく自炊をして食費はかけず、週に1回だけ外食する事を決めている。平日は仕事と好きな分野のお勉強。土曜は自炊の為の買い出しと切り分け、お部屋の掃除。日曜はお出かけをするか、溜まっているテレビの録画を見るらしい。あんまり物を買ったりしないと言っていた。そんな生活でも会う度ここ最近楽しかった出来事をニコニコ沢山話してくる。憧れる。後、たまたま障害を持つ方に休日はどこにお出かけするの?と聞いたら、図書館に行くと言っていた。図書館で本を読んだり、本を取り寄せたりするらしい。その一連のお出かけが、凄く好きらしい。素敵だなあとひたすら思った。
読んでいた本の中では子どもの放課後の格差に対して記述されていた。高所得者で母が働きに出ている人家庭は、学習塾や習い事をして放課後を過している場合がある。低所得者の家庭の子どもは児童館、公民館や公園を利用する場合が高所得者に比べ多い。
私はこの一文を読んで、豊かなサービスを享受出来る事だけが幸せとは限らないとふと思った。
学習塾や習い事は将来的な安定や幸せに繋がるかもしれない。けどそれは確証された幸せでは無い。児童館や公民館、公園で過ごすことが子どもにとって幸せかは分からないけど、地域の中ですくすく育っていくって、清廉で自然な暮らしに憧れる私にとって、むしろ羨ましくて豊かだなと思った。
サービスはこの先どんどん増えていくと思う。社会はどんどん変わっていく一方で、新しいシステムや構造はどんどんできる。競争によって新たなサービスがうまれて、その豊かさを享受するにはお金が必要で。豊かさは当たり前になっていって。豊かだと感じていたものは、無いと苦しいものに変わっていって。そこで私たちはいつ満足できるのだろう?今ある物質の中で豊かに生きていくことに憧れがある私には無駄に豊かなサービスの増加って怖い。
貧しくても豊かに生きる人に永遠の憧れがあるのだと思う。
実際、3食自炊をして、浪費せずに豊かに生きていくって逆に相当余裕があったりしそうです。その清廉な生活にお金がかかっているような気もします。
私も清廉な生活したい、サービスに依存する人生辞めたい。恐らくは永遠の憧れ。