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Chat GPTのせいで、プログラミングがつまらなくなった気がする

はじめに

あんなに楽しかったプログラミングが、最近つまらない。黒い画面を見るのが、以前よりも苦痛になった。黒い画面を埋め尽くすソースコードの羅列に、「愛着」を抱けない。それどころかあいつらは暴力的ですらある。ボクの前に立ちはだかり、大波のように飲み込もうとしてくるのだ。膨大なプログラムに、ボクはつい目を背けてしまう(まあこれは以前もそうだったかも?)。。

Chat GPTのせいだ!と思う。ボクもプログラミングするのに、ついついChat GPTをつかってしまう。「JSでこういう便利関数つくってえ」とお願いして生成してもらって、それをコピペ。便利である。疑いようがない。

いまのボクの体たらく

いつのまにか、ボクがやることは、Chat GPTさんにプログラムするように「お願いする文章」を書くことばっかりになっている。所望のプログラムを書いてもらうためには、お願いする文章は「論理的に」書く必要があり(※1)、これはけっこう大変な作業になったりする。お願い文を作ったなら、Chat GPTさんに投げてみる。Chat GPTさんはプログラムを生成してくれる。コピペし、実行してみる。すると、どこか予想と違う結果が返ってくる。「ああ、ここの指示がミスリードだったんだな」とか「もっとこの部分を詳細に指示しないと」ということに気づく。ボクは、Chat GPTさんに対し、彼が書いてくれたコードの「修正依頼の文章」を作成し、ふたたび提出する。・・・これを繰り返すことが、ボクのする作業になってしまっているのである。

本来のプログラミングの楽しさ = DIYの楽しさ

ほんらいぼくがプログラミングに感じていた楽しさは、ものづくり(DIY)に感じているそれと、かなり似ているなあと感じる。すなわち、自分の手を・頭を・身体を動かして、素材と対話しながら、じっくり制作する、という楽しさである。自分でプログラムを書き、なんらかの機能を実装しようと試行錯誤するからこそ、さまざまな「気づき」を得る。発想を得る。あらたな工夫を思いつく。こうした創造的なプロセスを経験するからこそ、それに「充実感」がともなうのだろう。「おれが作ったんだ!」という「誇り」にも似た充実感である。

Chat GPTさんに頼るプログラミングには、「充実感・満足感・やった感」が、ない。圧倒的に足りない。

より良い使い方をめざす

「それ、キミのChat GPTの使い方が下手クソなだけだぜ」、という指摘もあるかもしれない。たしかにそれもあるかも。上述した利用方法ではもはや、ボク自身がChat GPTさんの道具に成り下がっている。主従の逆転である。もっとうまい使い方をすれば、Chat GPTは、より効率良くプログラミングするためのみならず、「より充実感を得ながら」プログラミングするための道具に
もなるのかもしれない。それは目指していきたいと素直に思う。

うーん、悩ましい。

  1. たしかに、「お願い文」を書こうとすることそのものは大事なことでもある。自分が実現したいことをよりハッキリクッキリと、論理的に整理することになるからだ。実際、そういう整理が不十分なままコーディングに取りかかると、あとあと痛い目にあう、なんて経験もあるから。だがその反面、整理不十分なままコーディングしているからこそ起こる思いもよらぬ「発想」の可能性は減ってゆく。。


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