1.はじめに
【訳】
楼英は、明代初頭の医学者であり、彼は医学綱目という著書をあらわし、明清代以来、多くの医者に伝習され、一定の働きがあった。
【訳】
我々が残念に思うことは、彼の行いが現代にほんの僅かにしか伝わっていないことである。
『医部全録』の医術名流列伝には、『紹興府誌』に記載された楼英の一生が引用されているが、ごく僅かの記載があるだけで、実に簡略すぎるのである。
【訳】
幸いなことに、楼英の故郷が今の浙江省蕭山県楼家塔村に在り、その上、彼の末裔は医者であった。
現地への訪問や県誌や家系図などの資料を通して、楼英の一生についての理解は、かなり全体的な概要を得る事ができた。
2.楼英の生平
【訳】
楼英は、一名を公爽、字を全善、号を全齋といい、元朝の至順壬申の年(公元1332年)の3月15日に生まれ、明朝の建文辛巳の年(公元1401年)の十一月十九日に亡くなった。
【訳】
彼の祖先は唐末の時代に銭鏐の軍官で、子孫は義烏から蕭山の南に移り住んだ。
楼英の父親は大八公と呼ばれ、彼は大八公の末っ子であった。
彼の兄は楼泳といい、字は原善、号は信齋、一号を仙岩逸叟といい、『信齋詩稿』を著し、当時の詩人である楊鉄崖がこれに序を書いた。
【訳】
仙岩は肖山県城南の八十里にあり、東晋の許詢はかつてここに隠居し、許詢は字を元度といったため、仙岩を一名元度岩という。
許詢の住宅は、後に寺院に改装され、元朝の至順二年(公元1331年)には、僧道澄等によって再建され、楼英と兄の楼泳はかつてこの寺に住んでいた。
【訳】
楼英はこの優美な環境を好んだため、自分の文集の題名を『仙岩文集』とした。
彼の家には古くから清燕楼があり、この古い建物の中にある部屋の中で、彼は医書を読み、薬物を精練し、人のために治病し、その土地の人民からとても敬愛された。
【訳】
彼は青年時期には『周易』をよく読み、以後、『内経』を深く研究し、並びに後賢の医学論著を収集し、その三十年の努力を積み重ね、『医学綱目』四十巻を編集し、
総論及び内科、外科、婦人科、小児科と眼科等を包括し、その書物を病によって部門に分け、部門は陰陽蔵府の部を巻首に置き、物事の要点を著し、法に分けて撮陰陽蔵府の要点を箇条書きにしてあつめ、だれの目から見てもわかる様にしたもので、明以前の医家らの学説を総まとめたものである。
【訳】
また『内経運気類註』という書を著し、経の主旨を明らかにし、運気論の足りない所を指摘した。
また『参同契薬物火候図説』と、『仙岩文集』の2巻、『仙岩目録』及びその他いくつかの篇を著している。
彼の論文である『参同契薬物火候図説』一篇及び『江朝論』、『守分説』の各々一篇は、なお家譜の中に掲載されている。
【訳】
明朝の洪武帝の時代に、臨淮丞の孟恪は朱元璋に対して楼英を薦挙し、元璋は楼英を南京まで招いた。
楼英の南京での医療成績が良好であったため、元璋は楼氏を太医院の医官に任命したいと思ったが、すでに彼は年をとっていたので、それを辞退して帰郷した。
【訳】
楼英はかねてから金華県の戴思恭と親しい間柄で、姻戚関係を結んでいる。
戴氏は元代の名医である朱丹渓より教えをうけ、造詣が甚だ深く、楼英と戴氏は医学について議論しあい、その見解は極めて一致した。
【訳】
楼英が逝去した後、戴氏は手紙を書いて彼の息子に渡し、深い追悼の意をあらわした。楼英とその妻である張氏は、夫婦で共に肖山の“尚隝”に葬られた。
1918年の冬、楼家塔村の楼英家の祠下祠内にある、楼氏の遺像を改修し、近所一帯の人達は、心から楼英像の修復の式典に参加した。
【訳】
楼英には三人の子供がおり、長子の名は袞、次子の名は■、三子の名は師儒といった。
楼英の後、五、六世にあたる楼国棟が医学を善くし、杭州の湖墅で治病しており、その評判はとても際立っていた。
清代の乾隆庚午の年(1750年)に、一族の後代の子孫である楼克明は、『医学綱目』の中から幼科の驚搐の症を抜粋し、諸家学説を検討し一つにまとめ、『幼科金針』六巻を編纂した。
清代の咸豊の年代では、楼沛霖が『臨証宝鑑』十二巻を著したが、惜しむべきことに、すでに形をとどめず、伝本は存在しない。
3.後述
後述① 銭鏐(852~932)
[呉越(907~978)]
太祖(銭鏐)-世宗(銭元瓘)-忠献王(銭佐)-忠遜王(銭倧)-忠懿王(銭俶)
後述② 許詢
4.書誌情報
謝仲墨、楼延丞『明代医学家楼英事略』1962年9月 中医雑誌 掲載