短編詩的小説「レモンの世界」
手のひらで、檸檬を、もてあそんで、戻す。
その人はそれから席をたっていった。
動きに眼が離せなかった。
浮かびあがるその香は、ほそい螺旋を描いて消える。
もう他の誰のこともみえないのだ、と心臓が高鳴る。
氷がまるく、傷つけられてグラスに収まった。
ひとくちだけなめて、帰りたい。
でもこの高鳴りは身体に重く重く圧をかけ、
小さく開いた窓からみた月が、大きくて、怖いのだ。
ところが檸檬には、急にナイフがはいり、レモンの輪切りになって、冷たい紅茶へ添えられた。
止まった呼吸が再び上下しだす。
まるい氷をまたひとくちなめて、眼を瞑る。
小さく小さく十字をきって。
赦しをこうように心の中で唱える。
彼人の陰を明日は踏む。
明日は踏むのだ。
香は、螺旋状に、天井へと昇る。
終わり。