妊娠と、わたし。
もしかして、もしかすると、二度とない経験になるかもしれないので、ここに記しておくことにする。
妊娠中の、私について。
そもそも、私は自分が妊娠なんてものを経験するとは思っていなかった。
というのも、20歳の年に受けた婦人科検診で「あなたは妊娠は難しい身体です」という診断をされていたからだ。
別に、何か心配ごとがあって受診したわけではなかった。
ただ、当時勤めていた会社の福利厚生の一環として、女性社員は希望があれば婦人科検診を受診できる、と。
それだけ。
まぁ20歳になったし、1回くらい受診してみるかと。
受けてみたら、言われたのがそれ。
「生理はちゃんと来てますが、排卵がされていないようです」
ほぅ、そんなこともあるのか。
どこか他人事のように思った記憶。
それは多分、当時、5年間付き合っていた男性との別れを考えていた最中だったからだろう。
もうしばらく恋愛なんていいや、と思っていたところに、その事実。
それならいっそ、結婚もしなくていいや、と。
なんか、そんな風に思ってしまったのだ。
そんな私が、妊娠したのだ。
どういった経緯で結婚し妊娠したのかは、ここでは省略させていただくが、そんな事情を抱えた身体であることに変わりは無いので、せっかく経験したこの「妊娠」というものについて、今のうちに記しておきたいと思ったのだ。
妊娠が分かったのは、結婚してから2ヶ月半ほど経った時だった。
まさか、こんなに早く授かるとは思っていなかった私は、その時の悪阻をしばらく夏バテだと勘違いしていた。
入籍、結納、退職、引越しとバタバタしていたので、元々不順だった生理がそういう意味で来ていないことにも気付かず。
悪阻の症状が1週間ほど続いた頃に、あれ?そういえば?と思い、検査薬を試したところ、めちゃくちゃクッキリと陽性の印が出た。
妊娠が分かる前は、もしも妊娠することがあったら、こっそり動画を取りながら、夫にサプライズで発表しようなんて思っていたけど。
実際は、陽性の検査薬を見た瞬間に大声が出てしまい、御手洗での私の声に気付いた夫が防虫剤片手に駆け寄ってきて(御手洗に虫が出たと思ったらしい。笑)なんのサプライズ感もなく報告することとなった。
それでも夫は喜んでくれた。
さて、私たち夫婦は4年間の交際かつ3年間の同棲を経て結婚した。
3年間も同棲を続けていると、いい加減結婚しないのかと、それはそれはたくさんの人に聞かれたのだけれど。
夫(当時は恋人)は頑なに「どっちかの地元に転勤が決まるまで結婚はしない」と言い張っていた。
なぜそれに拘るのかと聞いたら、結婚して、もし妊娠したときに、どっちかの親が近くに居た方が絶対良いと思うから、と答えた。
その時の私は、そもそも結婚願望が薄かったこともあり、そんな先のことまで考えなくてもいいのにと楽観的に思っていた。
が、今となっては夫のその拘りは正しかったと思う。
現在、夫の地元がある県に転勤になって住んでいるが、残念なことに夫の実家は車で2時間という近くはない距離だ。
それでも、月に一度、夫の実家に行って誰かと会話が出来たり、ご飯をご馳走になったり、数時間息子を預かって貰えるだけで随分と気持ちが楽なのだ。
ありがたき幸せ。
さて、話を戻そう。
検査薬で妊娠が分かった私は、とりあえず産婦人科を受診することにした。
が、なんせ引っ越してきたばかりで土地勘もなければ、どこの病院がいいかなんてのは分からない。
そこで、1年前に奥さんが出産したという夫の知人に情報を求めた。
元々夫は里帰り推奨派だったので、里帰り出産を前提とはしていたものの、コロナ禍というご時世、いつ里帰りが出来ない状況になるか分からない。
ということで、万が一に備えて、分娩設備がしっかり整っていると教えてもらった病院に通うことにした。
お互いの両親への報告は安定期に入ってからと考えていたが、夫の勧めもあって、予定日が分かった段階でとなった。
夫婦が揃っている時に、お互いの両親へビデオ通話を繋いで報告した。
同棲の挨拶然り、結婚の挨拶然り、必ず私の両親を先にしてくれるところは、夫の、私の両親に対する優しさだと思っている。
そうして、私の妊娠生活が始まった。
母子手帳を貰いに行くところから全てはスタートしたような気がする。
一緒に行くという夫と、市役所に向かい母子手帳をもらった。
ちなみに最近ではジェンダーレス的なあれなのか、母子手帳ではなく親子手帳と言うらしい。
表紙にもそう書いてあった。
母親と子供の体調を記すのだから、異性婚でも同性婚でも母子手帳のままで良い気がしない?なんて、2人で全然関係ないことを話しながら帰宅して、早速開いてみる。
体調以外にも、その時の気持ちだとか感想だとかを書く欄がたくさんあって。
冗談半分で夫にも書く?と聞いてみたら、即答で書くと返事があったので、私が里帰りするまでは、毎月の記録の欄を私と夫で半分ずつ書くことにした。
後々、これが良い効果を生んだのだが、それは後ほど。
妊娠3ヶ月目。
悪阻は主に、食べづわりだった。
常に何かを食べていないと気持ち悪い。
空腹が1番の敵。
だけど、湯気がダメで温かい物が顔の前に来ただけで吐き気がする。
なんならお風呂の湯気もダメなので、お風呂に入ることも辛かった。
早朝だろうが夜中だろうが気持ち悪くなっては、冷蔵庫に常備していたミニトマトをひたすら食べた。
悪阻の間、1番食べやすかったのがトマトだった。
それから、夫がタッパーいっぱいのハチミツレモンを作ってくれた。
トマトにレモンに梅干しに、とにかく酸っぱい物を身体が欲していた。
悪阻しんどそう、と、複雑な表情をする夫に、二日酔いみたいな感じかなーなんて、正しいのか分からない雰囲気を伝えた。私は二日酔いになどなったことがないので。(それは酒に強いという意味ではなく、弱いのが分かっているからそんなに飲まないという意味で。)
実家の両親は、それを聞いて、柑橘系のゼリー飲料やバナナをたくさん送ってくれた。
義理の両親からは、お米や油など、重くて買い物に行くのが大変な物を頂いた。
眠気も凄くて、家事も疎かになってしまった悪阻期間は、それでも3週間という短めの期間で終わった。
軽い方だったのかもしれないなと思いながら、私はとりあえず運動を始めた。
妊娠4ヶ月目。
ただでさえ退職で落ちた筋力を取り戻そうと、1日3〜4kmを目安に歩いた。
引っ越してきたばかりだったこともあり、まだまだ近所の土地勘が無かったので、ウォーキングがてらの散策は楽しかった。
小さなカフェを見つけて入ってみたり、整備されたウォーキングコースを1周してみたり、学生たちが部活動に励んでいる競技場をぐるっと回ってみたり。
真夏の暑い日は、近くにある大型のショッピングモールの中を何周もした。
ショッピングモールの中を歩くのは、涼しくてとても快適だったが、つい物欲が刺激されて買い物をしてしまうという難点もあった。
この頃のエコー写真は、背骨や指の骨が見えるようになっていた。
1番最初のエコー写真と比べると、すごく人間らしく見えて驚いたのを覚えている。
今見直すと、全然まだまだ人間では無いのだけれど。
それでもお互いの両親は、成長をすごく喜んでくれた。
夫はというと、ただただ不思議だと、まだよく分からない感じで写真を眺めていた。
妊娠5ヶ月目。
運良く性別が分かり、私は急に生まれたあとの生活を想像するようになった。
ちなみに男の子だ。
ベビー用品を見に行っても、なんとなく眺めていたのから、実際に欲しいものを見るようになったり。
妊娠6ヶ月目。
安定期に入ってからというと、夫が休みの度に色々な所へ連れ出してくれるようになった。
海を見に行ったり、映画を観に行ったり、コテージを予約して1泊したり、夫の実家にも月一で連れて行ってくれた。
お義母さんはいつも美味しい料理を振舞ってくれたし、お義父さんはいつも夫の幼い頃の写真やビデオを見せてくれた。
動かなくていいよ、休んでていいよ、と。
安定期に入って全然動ける私を、それでも妊婦だからと甘やかしてくれた。
小さく感じていた胎動が、徐々に大きくなり、お腹の表面にまで伝わるようになってきた。
添えている手に伝わってくる振動は、突然始まり突然終わる。
なかなかタイミングが合わずに触れられなかった夫が、ある夜、ようやく胎動に触れられた。
今動いた!と、興奮気味に声を上げ。
でも、まだ生まれてくるイメージがわかない、男はやっぱり生まれるまで実感わかないのかな、なんて。
親子手帳の今月の気持ちの欄に書かれていて。
そっかそっかと、私は思った。
私自身、いまいち自分の体から新しい命が生まれてくるイメージが明確になっていなかった。
だから、夫がそんな感じなのは当たり前だろうなと思った。
習慣づいたウォーキングと、たまの夫との外出で、気分は随分と上向きだったと思う。
けれど妊婦の情緒とは物凄く不安定なもので。
定期的に「早く実家に帰りたい」という気持ちが出てきた。
妊娠7ヶ月目に入ろうとした頃だと思う。
コロナの影響で、妊婦学級も両親学級も中止となった。
妊婦検診の2週間前からは同居家族以外との接触は避けるように言われていたのだが、その頃から検診が2週間毎になっていたので、本当に夫以外と会えなくなってしまった。
世界から遮断されたような。
外界のことが分からなくなったような。
そんな、謎の孤独感に襲われた。
夫はそばに居てくれたし、週に1度は実家の家族と電話したりもしていた。
友達ともLINEをしたりして、実際には独りじゃなかったのに。
あの時は、本当に、泣きたくなるほど孤独だった。
お腹も少しずつ膨らんできて、夜になると寝苦しさを感じたり。
足元が見えなくて、社宅の4階までの階段の昇り降りが怖くなったり。
寝ている間に足がつって痛い、なんて話を聞いて毎晩怯えている私を見かねて、夫は足のマッサージをしてくれていた。
そのおかげかは分からないが、妊娠期間中一度も足がつったことは無かった。
妊娠8ヶ月目。
私の里帰りは、通常より早めとなった。
それは私の「早く実家に帰りたい」という気持ちとは関係なく。
分娩予定の地元の病院に電話をすると、32週目の検診からは里帰り先で受診して欲しい旨と、コロナ禍のため最初の受診の2週間前までに里帰りを済ませて欲しい旨の指示があったからだ。
つまり、私は妊娠29週目のうちには里帰りしておく必要があった。
というわけで、29週目に入ってすぐ、私は夫と2人で実家に帰った。
夫は「本当は俺が支えなきゃいけないのを、助けてもらうわけだから、挨拶しておかなきゃいけない」と言っていた。
そういうもんなのか、と私は呑気に思っていたのだが。
実際、里帰りした初日に夫が「長期間でご負担かけますがよろしくお願いします」と頭を下げると、両親は「責任もってお預かりします」と応えていた。
それを聞いた時、ああ、結婚ってそういうことかと、私は一人遅れて実感した。
私の家族は両親だったのが、結婚するということは夫が家族になるということ。
私からすれば実家に帰ってきた、それだけのことだったのだが。
夫からすれば、家族を預けるわけで。
両親からすれば、別の家族の人間を預かるわけで。
ふわっと「早く実家に帰りたい」なんて思っていた自分をめちゃくちゃに恥じた。
母親になる自覚は少しずつわいてきて、夫はまだ父親になる自覚が無さそう、なんて思っていたけど。
夫になったという自覚は、一家の大黒柱になるという覚悟は、私の何倍も持っていた。
頭が下がる思いだった。
夫も両親も里帰り推奨派だったので、里帰りは何の躊躇いもなくスムーズに進んだ。
2泊3日で家に戻っていった夫を見送り、私の里帰り生活はスタートした。
妊娠していると周りの人にひと目でバレるくらいにはお腹が出ていたけど、まだそんなに苦しさや重さは感じないくらいだった。
私の両親は定期的に、私の夫の心配をした。
仕事をしながら家事もすることになった夫。
それまでは家事は専業主婦の私がほとんどを担っていたので、里帰りさせたことで夫の日々の負担が増えていることを申し訳なく感じるらしい。
そのため、私の両親は、家にひとりで居る夫宛に、レトルトの食材や地元の名産品、お菓子などを、送ってくれている。
夫の両親も、夫の仕事が休みの日には実家に呼んで、ご飯をご馳走してくれているらしい。
私が里帰りするということは、夫にも負担をかけるということなんだな、と。
実際に里帰りしてから痛感した。
家事ぐらい全然大丈夫だよ、と。
それよりも体調は大丈夫なのか、と。
定期的に電話をくれる夫。
産まれてくる子のためにと、ガーゼやおくるみ、肌着なんかをたくさんプレゼントしてくれた義理の両親。
みんなに支えられてるんだと、目に見えて実感することが急激に増えた。
妊娠9ヶ月目。
産まれてくる子の肌着や布団なんかばかり見て選んでいる私と、育児が楽になる便利グッズばかり見て選んでいる夫。
子供最優先の私と、母親(つまり私)最優先の夫と、こういう所にも違いが出るのかと面白く思ってみたり。
夫が、里帰り前に母子手帳に最後に書いてくれた言葉はやっぱり「まだ実感がない」だったけど。
一生懸命父親になろうと努力してくれていることは伝わった。
お腹の中で、順調に育っている子供。
ずっと逆子だったのが32週目でようなく治り、ほっとしていたところ。
34週目の検診で、再び逆子になった。
「次の検診でも逆子だったら帝王切開にしますね」
お医者さんの一言を聞き、入院や出産、手術に関する同意書を山ほど受け取って帰った。
夫の署名が必要な欄もあったのだが、病院で「ご両親」でも良いですよと言われたので、父親に書いてもらうことにした。
とりあえずと、夫にその旨を伝えると、一応同意書を写真に撮って送って欲しいと言われ、その通りにした。
夫はそれを全て読んだらしい。
代わりに署名お願いしますと、私の父親に伝えていた。
変に真面目だなと思いつつも、そこまでしてくれることが嬉しくもあった。
結局、36週目の検診でまた逆子は治り、陣痛が来るのを待つことになった。
エコー写真ではもうハッキリと顔が分かるようになってきて、夫の寝顔にそっくりだ。
私の両親も、夫の両親も、夫にそっくりだねと笑っていた。
夫自身も自分に似ていると言っていたが、それでも、2人ともに半分ずつ似た子が産まれてきてくれたらいいなとも言っていた。
私は、実を言うと100%夫の遺伝子を受け継いだ子供が産まれたらいいのにと思っていた。
こんなことを言うと怒られてしまいそうだけど、私は私自身の存在をあまり好きになれないままこの年齢まで生きてきたので、自分の遺伝子が後世にも受け継がれることが嬉しくなかったのだ。
そして、来るべき時が来た。
母とカフェでランチをする余裕があった日の翌朝から、じわりじわりと始まった陣痛らしき痛み。
そこから2日後の早朝に、息子は産まれた。
出産の話は別の記事に書いたので、これまた割愛する。
コロナの関係で、出産から退院までの6日間、誰とも面会は出来なかった。
産後2日目から母子同室となった。
正直、ものすごく不安だった。
結婚願望もなく、妊娠するなど思っておらず、自分のことを好ましく思っていなかった私が、母親になれるのか。
母子同室になるまで、何ども母子手帳の夫の言葉を読み直した。
子供が産まれてくることへの喜びと、それでも湧かない実感と、私を気遣う言葉に溢れていたそれを読んで自らを安心させていた。
大丈夫。この子には立派な父親がついてる。
もうすぐ息子は7ヶ月になる。
寝返りはするしずり這いの気配は見せるしで目が離せない。
離乳食が始まって悩みは増えた。
睡眠退行なのか夜中に起きる回数が増えて私の睡眠不足は解消されない。
後追いも始まったように思う。
夫はというと、息子の夜泣きには全く気付かず毎晩爆睡をかましている。
離乳食は食べさせてはくれるものの作りはしない。
オムツも言わなきゃ気付かない。
でも、全力で遊んでくれる。
息子が声を出して爆笑するのは、圧倒的に夫と遊んでいる時が多い。
外出の際はベビーカーも抱っこも進んでしてくれる。
毎日お風呂に入れてくれて、親子の会話を楽しんでくれている。
息子の物で買いたい物があるときは、嫌な顔ひとつせずに買ってくれる。(私は現在専業主婦なので収入は無い。)
息子が体調を崩したら、仕事を休んで病院まで私と息子を連れて行ってくれる。
たくさん写真を撮ってくれる。
イベント事は全力で参加してくれる。
息子のことで困っていることを話すと、すぐに調べてくれる。
息子が初めて何かをした時には、一緒になって、全力で喜んでくれる。
父親になる実感の湧かなかった夫が、今どんな気持ちなのかは分からないけど。
私が妊娠していたトツキトオカ、夫だって色んなことを考えていたし感じていたんだろうなと、今になって思うのだ。
そして私は毎晩、息子の寝顔を見て、可愛いとも愛おしいとも違うなにか特別な感情を感じて、少しずつ母親になれている気がしてくるのだ。
検査薬にくっきりと線が出たあの日から。
妊娠そして出産という特別な経験を経て、今、唯一無二の感情を、日々噛み締めている。