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「孤独を愛する」ということ

こんにちは、Jinkingtoshです。

今回は、タイトルの通り、『「孤独を愛する」ということ』について書きたいと思います。

というのも、単純に孤独に苦しめられない人間って強いなと特に最近感じるからです。

環境・努力

僕は、考え事をする時も、選択し決断する時も、夢や目標に向かって努力する時も、どんなに他者からの後押しや支えがあったとしても、最後は自分に懸かっていると思います。だから、自分が出来ないことを誰かのせいにしたりしていてはいつまでも結果は出せない。つまり、選択も努力も孤独の上に成り立つべきであるような気がしています。

イギリスの演出家であるピーター・ブルックは言いました。

死守せよ、だが軽やかに手放せ。

元プロ野球選手である王貞治は言いました。

努力は必ず報われる。 もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。

どちらも有名な名言ですが、自分の選択・行動のことを言っています。

もし、今いる場所が自らの望みを叶えるのに適していないと感じたとしても、環境作りの段階から既に始まっており、その先のすべても自分との闘いであって、実際、他力本願のスタイルでは手に入れられないものが多いことをしばしば痛感します。そんなつもりがなくても気が付けば誰かの能力を当てにしてしまっていたり、自分の行く末を誰かの選択に委ねてしまっていたり、僕はたまにそんなことをしてしまいます。そして、大体そういう時は思い描いた形に落ち着くことはありません。だから、迫られる選択に対する決断にしても、その先の努力も、孤独な自分自身との闘いが必至であるということだと思います。

例え非凡な才能の持ち主で、周りの人々に恵まれていたとしても、結果を出すのは自分で、例え平凡で未だ特筆すべき才能を見出せておらず、周りにそれを手助けしてくれる人もいなかったとしても、結果を出すのは自分。だからこそ、自分と誠実に向き合って闘わなければならない。

また、どこに自分の可能性が転がっているかわからないのであれば、常に自分の持ち得るすべてをもって戦う必要があると思います。何をどのように頑張るのか、どの選択肢を選んでいくのか、そんなことが最初からわかっていたら苦労しないわけですから、まずは半端なことはしないように心掛けていれば、自ずと見えてくるものがあるのではないかと思います。僕は散々遠回りをして、今もその最中のような気もしますが、その分見えてきたものもあります。

自分との闘い

自分に可能性を見出していく作業さえも自分次第であり、関わる人々や身を置く環境を選択するのも自分で、努力をするのも結果を出すのも自分。

そんな過程においては、数多の孤独を体験することと思います。

思えば、作家や音楽家、画家など広く芸術家の類の人間は、そういった孤独との闘いに苦しんできたように思います。どのように生きていくか、どのように闘っていくか、そういった類のテーマの作品はとてもたくさんあります。

それは孤独と闘った結果、生まれたモノであり、そこに勝ち負けなどないことを表していると言えます。ただ、その闘い自体やその闘いに至るまでの過程、また、その闘いを作品として表出させる行為は、孤独の上に成り立っていたことでしょう。誰かと一緒に小説を書いたり、誰かと一緒に音楽を作ったり、誰かと一緒に絵を描いたり、そういうものは少ないですよね。もちろん、名を馳せたのちの合作や共同制作は除きます。

しかし、一方で、そもそも戦ってすらいなかったような気もします。孤独に立ち向かう必要のないほどまでに、自分自身や目の前の作業に没頭し、時間を忘れて、時には我を忘れてひたすらに励む

そんな姿を見てしまうと夢中は最強の武器だと感じます。

孤独と闘うなどと感じる暇もないほどに孤独であることに気付かず愛してしまっている状態に陥ることができる夢中は、とんでもない力を持っています。

なぜ孤独を愛せるのか

ここまでの文脈では『なぜ』の答えは『夢中』になってしまいそうです。

孤独を愛せるか否かは、そういった夢中になれるものに出会えた人と出会えなかった人の違いかもしれません。つまり、『「孤独を愛する」ということ』は、夢中になれるものを見つけることに直結しているようです。書いていて気が付きました。

つまり、僕が書きたかった孤独は、夢中によって発生させられる自分自身との闘いを意味し、それを愛することができれば、目指すカタチに近付ける。ということですね。

孤独を愛することができれば、読書でも映画鑑賞でも、先述のような執筆や楽曲制作でも、より深く味わい深いモノになる気がします。そんな夢中を一つでも見つけることができれば、万歳。嗚呼、人生。

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