¿バカは夢を見るべきではない?
皆さんには「夢」、ありますか?
私の今一番の夢は「ハムパン(韓国にあるプロムン常設カフェ)に行って推しの限定グッズをゲットすること」です。
それだけでは飽き足らず、「毎日ウマいもん食いまくりたい」「絵が上手くなりたい」「最強の容姿を手に入れ無敵になりたい」「推しに認知されたい」「人に誇れる才能が欲しい」「仕事メッチャできるようになりたい」「むしろ働きたくない」「異世界転生して無双したい」「100億円欲しい!」など、挙げるとキリがないくらい夢があります。
理由は、私が成人しても妄想の世界に溺れるほど夢見がちで、毎日ありもしない架空の世界にどっぷりと浸っているからです。
私は幼稚園の頃から、「将来の夢は?」と聞かれると「お花屋さんと、ケーキ屋さんと、漫画家と~…」といくらでも答えるような子供で、難しいことは考えずに、とにかく将来に希望を持った人間でした。
しかしそれを掴むための努力はしなかったため、それらは叶うこともなく記憶の奥底に沈んでしまい、現在の夢も「宝くじ、当たったらいいのにな~」というレベルの現実逃避のための言い訳になってしまいました。
進路について考え始める高校生頃には、ただ、漠然と「何かの会社に入って、残業や人間関係に疲れながらも、正社員として働き、好きなもののためにお金を使う」ことが将来の目標となりました。
では、夢を叶えること(ひいてはそのために努力すること)において、一番困難なことは何だと思いますか?
失敗すること?
自信を喪失すること?
やめておけばよかったと後悔すること?
私にとっての一番の困難は、「自分の努力のせいで、他人に迷惑がかかること」です。
私は勉強が大層苦手で、塾に通っていたことがあります。
その時の講師に言われた言葉が「これだからバカに勉強教えるのは嫌なんだよ!」です。
勉強が苦手なので、社会人になっても仕事も中々覚えられず、数え切れないほどのミスをしました。
その時の上司に言われたことが「あなたのせいで教育係が病んでいる」でした。
自分の失敗は、自分だけの問題だと思っていました。
リカバリーのために人に迷惑はかけてしまうけど、持ちつ持たれつで社会は回っているのだから、できないことには甘えてもいいのだと思っていました。
上手く行かないことがあっても、それでもいつかどうにかなるんじゃないか。
取り柄も才能もなんにもないけど、挨拶や丁寧な受け答えさえきちんとしていれば何だかんだ見放されず、生きていれば心からやりたいことが見つかるのではないか。
不器用でも一つのことを続けていれば、いつかは形になったり、その誠実さを認めてくれる人が現れるのではないか。
昔の世間知らずな私は、日々怒られながらもそう思って生きていました。
現実は、そんなに甘くはありませんでした。
時間は有限です。
努力の方向を間違えると意味がありません。
努力は実を結ばなければ意味がありません。
努力は他人の手を借りなければできません。
それに付き合わされた人間はストレスを感じて、限界を超えると壊れてしまいます。
当たり前のことなのですが、バカな私には、それに気付くことができないまま、幼少期を過ごし、社会人として世に出てしまいました。
親、クラスメイト、先生、同僚や上司、あらゆる人間に迷惑をかけて生きてきました。
そうするうちに、「私には何もできないのだから、分不相応な望みを抱いて実現しようとするのは、どうせ叶いっこないからやめよう」と思うようになりました。
なぜなら、それがバカでも簡単に実践して簡単に結果を出すことのできる、人生における唯一の学習結果だったからです。
今は何とか新しい職場に辿り着くことができましたが、「そう遠くないうちに迷惑をかけて、また見限られてしまうのではないか」「人様に迷惑をかけるくらいなら、もう社会に出て働くべきではないのではないか」と、毎日のように怯えながら朝を迎えています。
これは努力や責任から逃れるための言い訳でしょうか?
それとも自分の性質を理解した上での適切なキャリアプランなのでしょうか?
自分では、もう分からなくなってしまいました。
ただ、少なくとも「やるべきことを成さずには、夢を見てはいられない」ということだけははっきりと分かりました。
人と血鬼の共存を夢見る
『Limbus Company』7章「夢の終わる」では、人を襲い血を吸う人外、いわゆる吸血鬼である「血鬼」が「食材たる人間との共存を夢見ていた」という話が展開されます。
過去形です。
この話の中心となる囚人は、6.5章「ワープ特急殺人事件」で「第二眷属」と呼ばれ不穏な影を見せた、ドンキホーテです。
ドンキホーテは、チュートリアル直後に喧嘩の制裁と称して仲間の頭を槍で貫いてぶっ殺したり、バカでもわかる、決して破ってはならない規則を己の信条を理由に破り、時には危険な幻想体に単身突っ込んだ結果、仲間を巻き込んで死に追いやっている、LCB部署きっての問題児です。
他プロムン作品をプレイして、あるいはリンバスで都市の異常さを身に染みて理解したプレイヤーは、ドンキホーテという存在の危うさに肝を冷やし、時にはヘイトすら向けたでしょう。
私もロボトミとラオルをプレイしているので、K社で規則を破ったシーンを見た時には「こいつ無敵か?」と驚きました。
いくら何度も蘇生ができるからといって、死への痛みや恐怖がなくなるわけではありません。
ドンキホーテが無茶をするたび、他の囚人や管理人であるダンテは、受けなくて済んだかもしれない死の苦痛を何度も経験することになります。
ドンキホーテが何かをやらかして怒られているのを見るたびに、共感性羞恥あるいは同族嫌悪が発動し、自分事のように肝を冷やしてきました。
私は原典ドン・キホーテの翻訳本を読んでいます。
老人が冒険譚を読んで「自分は騎士だ」と強く妄想するようになり、周りを巻き込みながらもありもしない冒険や困難に立ち向かい、最後には妄想から覚めて現実で病床に伏し、己の行いを顧みながら死んでいく。
そんな話です。
ドンキホーテは、「フィクサーという存在の素晴らしさ」「人は己の善性に従って生きるべし」という旨の言葉を、しきりに繰り返してきました。
きっと原典と同じように、誇張されたフィクサーの伝記なんかを読んで、自分もそうあるべしと定めている、狂人なのだろう。
何かはわからないが、自分との因縁と対峙し、決して相見えることのない存在と戦う中で、「正義」というものの在り方について考え直し、現実を直視し、「正義」は掲げつつも、そのニュアンスは変わってしまうのではないか。
7章に至るまでの考察は、こんなところでした。
蓋を開けてみると、「ドンキホーテ」は第一眷属であり、いくつかある血鬼の派閥の頂点に君臨する血鬼の名前でした。
我々が知っている「囚人ドンキホーテ」は、血鬼ドンキホーテによって血鬼にされ、見聞を広めるために自分の代わりに人間の世界に送り出された「サンチョ」という名前の第二眷属血鬼でした。
「血鬼ドンキホーテ」は、ある日訪れた「バリ」という名のフィクサーから、様々な冒険の話や、誰もが笑顔になれる「遊園地」という夢のような場所の話を聞かされます。
初めは無関心そうでしたが、いつしかバリの話を待ちわびて、遂には「血鬼と人が手を取り合う世界を作りたい」と思うようになります。
しかし、家族である眷属たちの思いは違いました。
血鬼には、絶対の習性があります。
生きた人間の感情の乗った血でしか腹は満たされず、幸福は感じないこと。
そして、「家族」という眷属の上下関係はとても強いということです。
不満を感じる血鬼たちも、その不満を超えて父上たる「血鬼ドンキホーテ」を愛しているので、多くの血鬼たちが、人から隠れ住むための我が家をその手で壊し、他の派閥の血鬼と争い、人間との共存を目指して従いました。
そして遂に「血鬼ドンキホーテ」の夢であった、人間も血鬼も笑顔で過ごすことのできる遊園地「ラ・マンチャランド」が完成します。
最初は上手く運営していたことが、サンソンの語り口や施設の古いアナウンスなどから読み取れます。
入園客から献血のように提供された少量の人間の血と、動物の血を混ぜて作った栄養満点の「血液バー」なるものも開発されました。
味も食感も最悪で、それでも全ての血鬼が飢えを凌げたわけではないなど、不安要素は残りますが、それでも体裁上、上手く行っていたのでしょう。
しかし、あろうことか「血鬼ドンキホーテ」は旅に出てしまいます。
たった一人、従者であった「血鬼サンチョ」を連れて、遊園地の運営を家族に丸投げして、気の赴くままに各地を放浪します。
ある時は「ラ・マンチャランド」を宣伝するために。
ある時は「遺物」と呼ばれる伝説の装備を手にするために。
何度も、何度も。
家族は愛する父の代わりに、「人を襲わない血鬼」として完璧に遊園地を運営し、冒険から帰って来た父を笑顔で迎えてくれるのでしょうか?
「夢」が持つ独善性と加害性
そんな都合の良い話はありません。
我が家であった城の放棄、栄養だけを重視した不味い食事、それすらも行き渡らず飢えていく日々、そんな中で不運にも口にしてしまったご馳走、何より愛する父親が自分たちを放って居なくなってしまったこと。
様々な不満や苦痛が募り、人間も血鬼も笑顔になれる筈の夢の「ラ・マンチャランド」は崩壊し、人間は対等な存在から再び食物として安全を脅かされるようになり、血鬼たちは冒険から帰ってきた「血鬼ドンキホーテ」によって危険な状態であると判断され、「ラ・マンチャランド」に200年もの間、閉じ込められてしまいます。
「血鬼ドンキホーテ」は従者の「血鬼サンチョ」に冒険の続きを託して、数え切れないほどの家族たちの、絶対であったはずの家族愛すら超越した、積もりに積もった苦しみを200年間、たった一人で受け止め続けることになります。
サンソンと黄金の枝の介入もあって、200年間家族と苦痛を共有した「血鬼ドンキホーテ」は、長い妄想の世界から覚めることになりました。
血鬼の本能は、人間の血を求めている。
家族たる眷属を作った自分には、家族の幸福を優先する責任がある。
冒険や共存など、見てはならない、最初から叶うはずのない夢だったのだ。
と。
「血鬼サンチョ」もまた、「囚人ドンキホーテ」を滑稽な舞台俳優だったと断じ、リンバス社での冒険を経てもなお、「何も変わることができなかった」とはっきりと吐き捨てます。
どれだけ理想的な立ち振る舞いを演じたところで、世界は残酷で、努力が必ず報われることはなく、人々は自らのエゴに突き動かされ誰かを傷付け、血鬼である自分は愛すべき父の命令に従い、人を害することでしか生きられないのだと気付かされたのです。
都市においても、我々プレイヤーの現実においても、「人に害を為すこと」は重い罪です。
世間一般で「悪」と批判されるべきことです。
人を傷付けた人間には償いをする責任があり、裁きを受ける義務があります。
他者を傷付けてしまった者からは人が離れていき、どこにも居場所がなくなり、自分の存在意義を見出せず、ただ目の前の現実に打ちひしがれながら、無気力に息をするだけのつらい日々が待ち受けているのです。
それでも、「囚人ドンキホーテ」の正体を知ってなお、LCBの囚人たちは「血鬼サンチョ」に「囚人ドンキホーテ」と呼びかけます。
「血鬼サンチョ」にとっては一時だけ見た夢の中の出来事だったとしても、囚人たちにとっては「囚人ドンキホーテ」との冒険こそが真実だからです。
これまでの旅路を振り返った「血鬼サンチョ」は、他の血鬼たちとは違い、父親と冒険の旅を共にしてきた中で、いつしか自分の中に蒔かれていた「夢見る心」という光の種が静かに芽を出していたことに気付き、初めて愛する父の命令を破り、「血鬼ドンキホーテ」と対峙することを選びます。
そして自らの手で倒した「血鬼ドンキホーテ」の名前と夢を継ぎ、自分を「囚人ドンキホーテ」として定義づけ、再びリンバスカンパニーでの冒険の日々の中に戻ることを選びました。
「血鬼サンチョ」としての宿命を背負ったまま。
バカは夢を見てもいいのだろうか?
夢を抱くことは、自分をより良い存在にするための希望であり、努力やポジティブさを身に着けることのできる、素晴らしいものです。
同時に、身の丈に合わない夢や、中途半端な気持ちで臨んだ道は、自分の心も時間も消耗させ、自分の周りにいる人を巻き込んで傷付けてしまう、独善的な行為です。
私は昔から自分の都合ばかりを優先して、それに付き合わされる他人を顧みることなく生きてきました。
その結果、私の行いは全て自業自得となって私に返ってきました。
そんな自分が、もっといい人生を送るために努力することは、許されるのでしょうか?
あれもやりたい、これもやりたいと、身の丈に合わない願望を抱くことは、身の程知らずではないのでしょうか?
多分、夢を見ることは誰にでも許されているのでしょう。
子供はもちろん、大人になってからも。
ただ、夢を実現するためには、相応の覚悟と努力を必要とします。
どれだけ傷付いて、傷付けて、それでも夢に向かって本気で走ることのできる者のみが、夢を叶える力を持っているのだと思います。
とても残酷な現実だと思います。
叶うことならば、「ただ幸福に生きていきたい」という当前の願いを実現するためだけのことに、自分も、他の誰かも傷付くことのない世界であってほしいです。
こうした考え方を、世間では「綺麗事」と呼びます。
実際は誰も傷付かないでいい世界なんかなくて、どんなに優れた人間であっても、その成功の陰では無数の誰かが傷付いているのでしょう。
そしていつしか自分の「夢」が誰かを傷付ける「病」であると気付いてしまった人々は、夢を見なくなり、ただ一日一日を意味なく過ごし、生きていくことに期待すら抱けなくなってしまいます。
けれど、どれだけ傷付いて、傷付けてしまったとしても、夢を追うことを止めるのは、自分以外の誰にも止める権利はないのでしょう。
自分さえ諦めなければ、また夢に向かって走り出したって、いいのです。
どんなに苦しくても、全てを投げ出したくなっても、まだその「夢」が星のように輝いて見えているなら、何度だって挑戦してもいいはずです。
人生は一度きりです。
もし夢が叶わなかったとしても、周りに誰もいない孤独な人生だったとしても、そこに至るまでの過程を振り返った時、「私は諦めなかった」と胸を張って言えることこそ、「夢を叶えること」と同じくらい、輝いていてかっこいいのではないか。
「囚人ドンキホーテ・血鬼サンチョ」を通して、ダンテや囚人たちからのエールが、画面を超えてプレイヤーにまで届いた。
私は、7章を読んでそう感じました。
「囚人ドンキホーテ」は、自分が「血鬼サンチョ」であるという現実を抱えたまま、再び「囚人ドンキホーテ」としての道を歩き始めようとしています。
7章以前のように無知で無謀で夢見がちなだけの存在ではなく、思慮深く一歩距離を置いた現実的な本質と、血鬼としての「病」を抱えたまま、どんな困難を前にしても決して諦めない英雄としての物語が始まろうとしています。
現実を知りながら夢を見続ける彼女が、旅の中でどんなふうに世界を見て、12人の仲間たちと関わっていき、待ち受ける困難にどのように立ち向かい、その果てに何を見出すのか。
私も『Limbus Company』という物語を読みながら、ドンキホーテの夢の果てを、一緒に見届けようと思います。
そして、私は自分の中に埋もれてしまった夢の種を探そうと思います。
人間は生きている限り、欲望は尽きることがなく、今は乾いた心の中で埋もれている夢の中には、きっと芽を出すことを心待ちにしている種が、一つくらいはあるだろう。
不格好でもみっともなくても、自分が思う理想の「かっこいい」を夢見ながら演じていれば、きっといつかそれが真実になる。
もう一度、そう信じてみようと思います。