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『言葉と虚構』 著者:9月のワンピース
「言葉」
それは、虚構である。
言葉はいつ誕生したのだろう。
「言葉の起源は歌、初期の言葉は獣や鳥の鳴き声
の模倣である」などいくつかの説が存在している。
言葉って何だ。
この本に書いてある文字のことなのか、話し言葉
のことなのか。
言葉の起源はいかなる知の巨匠でさえ解読不能だ。
そもそも、「言葉の起源」という言葉自体が言葉
を枠にはめ込んでいる。
言葉を語るためには、言葉が必要。
どういうことだ。
この本に書いてある言葉には実体があるようで、
実体がない。
意味があるようで、意味がない。
意味があるように見せかけているだけなのだ。
しかし、何故言葉の意味が理解できるのだろう。
ここまで日常的に目にする言葉というものが
実は実体のないものであるという事実に、誰しも
恐怖の念を抱く。
これまで、言葉によってどれだけの人々が失われ
てきたのだろう。
これまで、言葉によってどれだけの人々が救われ
てきたのだろう。
言葉には無限の可能性と虚構、栄光と絶望、名誉
と恥辱、欺瞞と真実、有と無。
あらゆるものが有り、それと等しく、無い。
私たちが言葉を理解しているのか、言葉が私たち
に理解されているのか。
同じようで違う。だけど同じ。
どういうことだ。
例えば、「楽しい」という文字を見たとする。
すると、楽しい気持ちになる。
一方、「悲しい」という文字を見たとする。
すると、悲しい気持ちになる。
でも何で、「楽しい」という文字を見て悲しいと
思う人がいないのだろう。
もちろん、認識によるものだと思うが、じゃあそ
の認識って何だ。
ここに言葉の面白さと奥深さが広がっている。
愛を捨て、森へゆく。
ねえ傘、土にはまろうと、
起きなむ一二三や尊、時化る。
割れ目よほら、この瀬田。
僕がこの世から亡くなる時、一体どんな言葉をか
けてくれるかな。
言葉は虚構だけど、そんな時、「悲しい」、「寂
しい」、「ありがとう」、「愛してる」。
そんな言葉が飛び交ってほしいと思う僕の気持ち
は、おかしいことなんでしょうか。
虚構である以上、「死ね」、「消えろ」などと他
人に言った所で何にも意味がない。
むしろ人を傷つけるだけだ。
何故だろうか、言葉は実体がないのに綺麗な言葉
遣いでありたいと強く思ってしまう。
それは真の意味で、言葉と虚構について理解して
いるからだろう。
言葉を知るということは、
虚構を見つめることと同等である。
現実世界を生きていると、目に見えることばかり
にとらわれ、目に見えるものしか信じれないと思
う人がいるだろう。
その人たちに、こんな質問をしてみたい。
「あなたが悲しい、楽しい、苦しいと思うその感
情は、物質として目の前のどこに存在しているの
ですか?」と。
無論、それに答えられる人はいない。
見えないもののなかにしか現実は存在しないので
はないでしょうか。
本物を見るために物を見ていても何も見えない。
これは言葉に限った話ではありません。
無限の愛に包まれて
深淵の中を私(貴方)は彷徨う
木漏れ日の光を見ようとするが
それらは無常 逃げてゆく
何処へ往くのか嘆いても
それらは教えてくれないが
私の中に眠ってる
有限なる世界に身を置くが
私は常に久遠の空
嗚呼、刹那かな、この生命
そういえば昔、とある方にこのような言葉をかけ
て頂いたことがあります。
「成人おめでとう。今日の天気のように
良い人生であります様に。○○に乾杯」
私は今、晴天なる人生を歩めていますか?
私を照らす太陽でいてくれますか?
言葉では決して言い表せない、あらゆる情念が溶
けて静寂の世界へと私は案内された。
それと同時に、私は次の人へ言葉を伝えなければ
ならないという使命感が与えられた。
だからこうして今、みなさんへ投げかける言葉を
懸命に、そして静かに紡ぎ出している。
私たちは、言葉という名の虚構によって気づかぬ
うちに”何か”によって突き動かされている。
言葉は、悲劇にも喜劇にもなり得る性質を持つ。
私たちはこれから言葉とともに、どのような世界
を歩んでいくのだろう。
それは私たち自身が既に知っている。
もしかしたら、その鍵を握っているのは唯一、
「言葉」のみなのかもしれない。
今回は詩を書いてみました。
※この本(詩)は、前回の本である『ジーンズの可能性と文学の限界』とセットになっています。両方を読むと分かる”あること”が隠されているので是非ご覧ください!『ジーンズの可能性と文学の限界』は以下から見れます!
それではまた。