「リスナーさん」について(ガルラジを聞いて考えたこと)

 SNSでかんたんにつながれてしまう時代において、ガルラジはそのつながりかたやつながりの質においてかなり飛び抜けているように感じるのはなぜなのだろう。たとえば僕たちはアニメを鑑賞する。ツイッターで感想をつぶやく。フォロワーの感想も読む。でも、そのフォロワーたちへの仲間意識というか、おれたちはこのアニメを観ているんだぞ! みたいな気持ちを共有している感じはない。ガルラジにはそれがめちゃくちゃある。というかガルラジだけじゃなくて、たぶんラジオ一般についてそうなのだろうと思う。リスナーの分母が少ないから、というわけではないだろう。ガルラジがめちゃくちゃ人気になってガルラジリストがすごい速さでスクロールしてってもガルラジリスナーたちへの壁みたいなものは感じないだろうと想像できる。
 ラジオは、リスナーさん、と語りかけてくれる。たったこれだけの言葉がもしかして魔法なのかもしれない。それで僕たちは、そのラジオのリスナーになる。特定多数のリスナーさん。
 このような語りかけというのは小説にもあるけど、でもそれは、あなたの、あなた個人の問題、として回収されがちだ。重いんだよな。ラジオのリスナーさん、という語りかけは、小説における二人称による語りかけと、ツイッターのTLに向けて語る「おまえら」との中間にあって、それがちょうどよいのかもしれない。

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久慈くじら
小魔術