セカイ系を終わらせた『天気の子』についての覚書

『天気の子』はひじょうにわかりやすいテーマを伝えてきた。
奇跡には代償が必要である。
奇跡はひとを不幸にする。
世界に奇跡など必要ない。
世界は勝手に回ってるので、どうなろうが知ったこっちゃない。
狂ってるも狂ってないもない。
だから目の前のひとを精一杯愛すのだ。

もしこれが奇跡を賛歌する作品だったなら、帆高が陽菜を地上に連れ戻しても天気はそのまま回復したままだった、というふうにするだろう。
そうはなっていない。
なぜか?
われわれの人生には奇跡などないからだ。
ただ移り変わっていく世界で、世界を変える力など持たないがゆえに、身近なひとたちを愛し、幸せに生きていこうとするのだ。
それしかわれわれに方法はない、と『天気の子』は言った。

それに、東京が水没したって人間は強かった。
帆高と陽菜は異常気象を大きな問題だと捉えたし、それを解決できる力があったことから自分たちの「切実な」問題となった。
だがそのことはふたり以外は知りえないし、たとえ救ったとしても、だれも陽菜を英雄だと崇めてもくれない。
だから帆高は「世界」より「陽菜」を選んだ。
結果として「東京」は救われなかったが、しかしそれでも人間は強く生きていく。
水没した街をバスのように巡航する船はあるし、雨の時代の農業だって開発中である。
そもそも東京は海だった、として納得もしている。
だからふたりが思っていたほどには「大きな」問題ではなかったのだ。
世界なんてそんなものだ。
好きなひととイチャイチャするほうが圧倒的に重要だ。
だから『天気の子』以降、「世界」と「愛」どちらを選ぶか、などというテーマは成り立たない。
『天気の子』はセカイ系を終わらせたのだ。
さよなら。さよなら。

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久慈くじら
小魔術