語りかけてくるゲーム
Steamのセールで買った『OneShot』がかなりおもしろい。インタラクティヴなメタフィクション・ゲームだということで宣伝されていたので、絶対おもしろいだろうなと思ったが、やっぱりかなりおもしろい。でもこれがメタフィクションじゃなかったとしても、こういう探索系謎解きゲームは好物なので、おもしろくプレイしただろう。
ゲームという媒体のすばらしいところは、こちらの世界からあちらの世界のなにかを操作できる、ということにある。そのほかの芸術は、ただ与えられるものをただぼうっと見ることしかできない(もちろん現代アートにも受容者が参加するものがあるが、媒体そのものの特性ではない)。だからゲームというのは没入度が高いように思えるし、じっさい「ゲーム中毒」になる人間だっている。
しかし、僕たちはそのフィクションの世界に住んでいるわけではなく、僕たちは僕たちの世界を生きなくてはならない。フィクション世界が一時的な逃げ場所になるのならばよいだろう。しかし、もしそこに住んでしまったとしたら? それくらい楽しいゲームというのはたくさんある。それは悪いことだろうか。そうだと思う。
しかし、『OneShot』は教えてくれる。ゲームの世界はゲームの世界でしかなく、僕たちは僕たちの世界からゲームの世界にアクセスしているだけだ、と。でも、それはまったく悪いことではなくて、むしろ、異文化交流的な楽しさがある。というより、ゲームというのはもともと交流が目的だったのではないか? 没入するのはゲームではないのではないか? そうだ。だからこそ、ゲームと対話できるような、『OneShot』や『ノベルゲームの枠組みを変えるノベルゲーム。』は、ゲーム世界がゲーム世界でしかないと明示しながらも、それでもその世界は「ある」んだよ、と教えてくれる。それがたとえば、作者の手で作られた世界だとしても、作者の手に沿うかたちでしかゲーム世界に関われないのだとしても、それでもその世界が僕たちに語りかけて、僕たちがそれに応答し続けるかぎり、その世界は存在する。いつまでも。