同じことを何度も言う
それ前も聞いたし、ってよく言われるしよく言う。たぶんほとんどのひとがそうだと思う。でもなんでそう言ってしまうのかよくわからない。たしかに同じ話を聞き飽きたからもうやめてって意味で言うのだけど、じっさい二回目の話を聞いてもおもしろく聞けるものだ。
だから同じことを何度も言うのはそんなに気にしなくていいと思う。でも僕はずっとそれを気にして文章を書いてきた。それは小説でもそうだし詩でもそうだし短歌でもそうだった。でも最近は同じことを何度も言ってもいいのかもしれないと思いなおした。
というのも小説を読んでいるとだいたいの作品では同じことを何度も言っているものだ。ほとんど同じ文章のときもあるし、また別の角度から同じことを言うこともある。またそのことを創作の秘訣であるとまで言うひともある。
たとえば稲垣足穂だけどこんなことを言ったらしい。「この(『一千一秒物語』)のちの私の作はすべて、一千一秒物語の註である」と。かっこいい。僕ならば註に「すぎない」と言ってしまうだろうけど、足穂はそこを自信満々に言い切ってしまうのだ。註でなにが悪い。言うべきことはくり返し言うのだ。ただし膨らませて。
うんうん。こんな感じで創作できればすごくいい。だってよく考えれば、人間が一生のあいだにかっこいいことを言える瞬間っていうのはそう多くなくて、じゃあずっとなにかを言い続けるにはどうすればいいのかというと、手を変え品を変え言うしかないのだ。そこをどうかっこよくするか、というのが作家としての技量だし魅力だと思うのである。
ほかにもミラン・クンデラは、ひとつの作品でひとつの主題を変奏させて七章書いている。これも非常に稲垣足穂に似ている、というか同じだろう。そしてこのふたりの作家の作品は同じことをくり返し言っていてもとてもおもしろいし、また決して飽きない。よく考えたら僕たちは内容よりも、それそのものを聞いたり読んだりすること自体が好きなのだろう。同じ音楽を何度も聞けるように、僕たちは同じことを何度も聞く。それはぜんぜん悪くない。そして同じ音楽を何度も演奏するように、僕たちは同じことを何度も言うだろう。だってそれは決して同じではないからだ。演奏したときのそのときの僕は、前の僕と同じではなく未来の僕なのだから。