AKG『ホームタウン』と忌野清志郎
音楽について語るのは困難だ。それでも語りたくなるのは、おれたちに声があるからなのかもしれない。だからこうやってキーボードをタイプするのは間違っていて、どっかの居酒屋であの曲が「わーっ」って感じでいいんだよ、って声のトーンとかで表現するほうが的確な語りだと思う。しかしおれは悲しい人間なので、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの新アルバム『ホームタウン』のあれこれについて、こうやって書くしかないのであった。
アルバムタイトルを冠した「ホームタウン」(2曲目)は、YouTubeでフルで聴ける。2:57と短い曲だけど、このアルバムが「何」であるか、後藤正文の思想が「何」であるか端的に歌っている。さらにはRCサクセションの「雨あがりの夜空に」も引用されていて、内容としてはかなり濃いと思う。
この曲で「雨あがりの夜空に」が引用されているのは、ダブル・ミーニングに目配せをせよという意味ではなく、忌野清志郎そのものを想起しろっていう意味だと思う。
というのも「ホームタウン」ではこう歌われているからだ。
蹴飛ばして 愛を確かめたい
君にまたがって 声を確かめたい
止まったエンジンと漲ったバッテリーも
彼のことを思い出してキメようぜ
この〈彼〉は忌野清志郎のことだろうな。
そのあとはこう続く。
俯いていては
将来なんて見えない
ほら 雨上がりの空から
子供たちが覗いて笑う
ホームタウン
忌野清志郎がいったい「何」を歌ったのかというのは一概には言えないかもしれないが、明らかにゴッチは忌野清志郎は「希望」と「社会」を歌ったひとだと思っているのが次の詞で読み取れる。
「こんなことして何のためになるんだ」
そんな問いで埋め尽くされてたまるかよ
ねえ そうだろう
「ホームタウン」が忌野清志郎のことを思いながら書いた詞だと考えるなら、この〈ねえ そうだろう〉は忌野清志郎への語りかけだとしか思えない。そして原点という意味をもたせているであろう「ホームタウン」で、忌野清志郎のことや、社会への皮肉、希望を歌うというのは、ゴッチも自分自身の原点をそう規定しようとしているのが読み取れる。さらには、〈ねえ そうだろう〉と〈彼〉に語りかけるというのは、ゴッチ自身はこのやり方で合っているのか不安に思っているということだろうし、その相手に忌野清志郎というロック・スターを選んだということは、自分がやっている(やろうとしている)ことが「でかい」ことであることを意識しているようでとても「エモい」。
実際ゴッチがやっていることは「でかい」ことだと思う。だって売れてるバンドなら適当に作りたい作品を作って売れば生きていけるはずなのに、ゴッチは政治的なことを言うし、行動にも移す。そんなめんどくさいことすんなよ、〈「こんなことして何のためになるんだ」〉って言う奴らばっかりなのに、それでも「やる」ということは「でかい」こと以外のなにものでもない。
そしてこの『ホームタウン』では、その「でかい」ことを誰のために歌うかっていうと「子供たち」であるということが明確にわかる。
『ホームタウン』の最後の曲「ボーイズ&ガールズ」もYouTubeで聴ける。
先行公開されていたときに聴いたけど、いまひとつピンときていなかった。この曲は『ホームタウン』というアルバムの一曲であるからこそ意味のある曲なので、そりゃそうだったなということがアルバムを聴いてわかった。
「ボーイズ&ガールズ」の歌詞はすべてが重要なので全文引用したいところだけど、〈愛嬌のない社会〉であるところのJASRACに「やーやー」言われたくないのでほんとうに重要なところだけ引用する。
用もない顔した世間に流されちゃダメ
そんな日も行き急ぐように きっと
ねえ Boys & Girls
教えてよ そっと 夢と希望
まだ はじまったばかり
We've got nothing
愛嬌のない社会に産まれた犬みたいにさ
「興味ない」みたいな言葉で切り捨てないでね
というわけで、ゴッチは少年少女たちのために「希望」を歌うようなありがちなことをやっているわけではなく、少年少女に「希望」を教えてくれっていう願いを歌っていることがわかる。
もちろんゴッチは同時に少年少女に向けて以下のように「希望」も歌う。
「あの娘がうらやましい」
「アイツが妬ましい」とか こぼして
彼らと馴染めなくても
何かが正しい 僕らに相応しいこと 見つけて
それをギュッと握りしめて
嗚呼 いつか老いぼれてしまっても 捨てずに
新しい扉を開こうか
We've got nothing
だからゴッチは一方的に「希望」を与えるために歌っているのではなくて、少年少女が「希望」を抱き得る者たちであるということにゴッチ自身が「希望」を見出していて、だから少年少女に向けて「希望」を歌っているわけである。
そして同時に、「おっさん」であるゴッチ自身は、「おっさん」でも「希望」を抱きながら生きるためには、こうやって少年少女たちのことを考えるしかねえんだよ、ってことを「おっさん」「おばはん」のためにも歌っているのである。
だから〈「こんなことして何のためになるんだ」〉とかを平気な顔して言う〈愛嬌のない社会〉が嫌いなんだよな。
ちなみに、この少年少女たちも忌野清志郎に接続することができる。RCサクセション「ドカドカうるさいR&Rバンド」の歌詞の冒頭を引用しよう。
バカでかいトラックから機材が降ろされ
今夜のショーのためのステージが組まれる
街中のガキ共にチケットがばらまかれた
ドカドカうるさいR&Rバンドさ
そして最後のスタジオ・アルバムである『夢助』の「激しい雨」からも引用しよう。
海は街を飲み込んで ますます荒れ狂ってる
築きあげた文明が 音を立てて崩れてる
お前を忘れられず
世界はこのありさま
Oh 何度でも 夢を見せてやる
Oh この世界が 平和だったころの夢
RCサクセションがきこえる
RCサクセションが流れてる
忌野清志郎も、自分が〈ガキ共〉に向けて歌っていたということを自覚している。ただ「激しい雨」の歌詞からは、商業主義のショー(RCサクセション)には力があったけど、しかしそれは〈夢〉を見せてやる程度の力で、世界を平和にするほどのものじゃなかった、という絶望みたいなものが見え隠れしていて悲しい。しかもこの〈平和〉というのはジョン・レノンの歌った「平和」でもあって、それはまだ実現されてないんだぜ、っていう悲しみでもある。
歩き出した未来は 冷たく濡れたままでも
誰もが見守ってる
世界は愛し合うのか
そして清志郎は、〈冷たく濡れたまま〉の世界しか見られずに死んでしまった。
だからこそゴッチは、その清志郎のことを背負いながら、少年少女たちに向けて歌うのである。ゴッチは、清志郎が歌った〈ガキ共〉だったからな。
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