肌から弱く放たれて(初稿)

 ユニット名はこころとあや美から取って「心の闇」としようかと一瞬思ったけど「心の闇、あんの?」ってこころにきかれたら答えようがないし、けれどこころに「わたしはこころがとっても好きなんです、変な人間なの」と告白してもちゃんと真摯に受け止めようとしてくれるだろうけど、それがとっても嫌だ。
 だからユニット名はけっきょくこころが決めて、わたしもそれがいいと言った「hey!」になった。こころが決めたものならなんでもよかったから最初に挙げてきたものに数瞬悩んだフリをしたら一発で決まったそれはあとからきくところによると、あや美のあやを反転させて「やあ」にしてそれを英語にしたものらしくて、それじゃあわたしひとりしか入ってないじゃん! こころが入ってなきゃ意味ないよって思うんだけどわたしもオッケーをだしたからダメって言うことはできない。
 ところでわたしたち「hey!」の踊ってみたの動画は一日で数千再生まで行って、やはりこころのうつくしい顔のおかげだなと思ってコメント欄をみているとayaかわいいというのとcocoroかわいいというのとふたりともかわいいが同等の比率くらいで流れてきたので世間のやつらの目は節穴だと思われる。こころにあやはかわいいからねって言われるのはうれしいのだけれど、わたしのみるところによるとわたしの顔はこころの一〇〇分の一くらいなもんだ。劣等感すら感じないレベルだ。こころはクレオパトラの生まれ変わりかと慄くくらいのでうつくしさで、いやクレオパトラの顔なんてみたことないから比較するには適当ではないのだけれど、それじゃあ小野小町と比べたらいいのかというとそれもまた同じなので、こころはこころとしてうつくしい。
 のだが、というかだからこそ、こころを世間に晒すのには抵抗があった。嫌だ。しかしこころが動画を投稿したいと言ったので否と言うことはできず、なぜかわたしの家に機材あることを知っていたこころはそれでいい感じに撮れるでしょとてきぱきと準備を進めて一週間かけて練習した踊りを公園に設置したビデオカメラで撮影したのだ。
 こころがどうしてこんなことをはじめようと思ったのかわたしにはまったくわからない。ならばこころに訊けばいいのだろうが、そんなことはできない。こころはことあるごとに、あやはわたしのことすごいわかってるんだね、と言う。けれどそれはまったくこころの勘違いで、わたしはこころのことなんてぜんぜんわからない。ほとんどなにもわからない。
 そもそも他人のことなんてぜんぜんわからないものだ。こころは氷を噛み砕く癖があるのだが、それが好きだからやっているのか、それとも嫌いだからやっているのかわからないし、そもそも彼女がそれを自分で意識しているかどうかすらもわからないのだ。だからわたしはハンバーガーをいっしょに食べるたびに、コーラの蓋を開けて残った氷をばりばりと食べるこころのことを宇宙人かのようにみる。しかしだからこそこころはうつくしいのであった。
 だからうつくしいというのは人間の肌の上をサーフィンしているようなものではなくて、もっと内側まで潜り込んでいるもので、しかもそれは人間が独りでいるときではなく、こころをわたしがみたときに、こころとわたしの宇宙がまぐわったときに発生するものだ。
 そう、だからわたしの憂いなんてやっぱり杞憂であって、画面越しでなんてこころのうつくしさがわかることなんてまったくない。だからこそ、どうしてこころがこんなことを仕出かすのかわからなかった。

 こころが滑り台の下に三脚をたててビデオカメラを設置している。今日は水曜日の放課後で、わたしたちは高校の授業が終わったあとこうやって公園で撮影に挑む。住宅街に突然あらわれるこの公園は、グラウンドと遊具のある場所がわかれているくらいのそこそこ大きな公園で、しかし人っ子一人いない寂しい場所だ。そんな公園であってもこころはずっと楽しそうにしているのでこの公園は果報者だと思う。
 ビデオカメラを設置するのはわたしには難しくて、カメラを借りるときお父さんに使いかたを教えてもらったのだけれど、お父さんは日本語が下手なので正直なにを言っているのかわからない。だから説明を聞いてもカメラの使いかたすらぜんぜんわからなくて、こころにどうしたらいいかなあと言いながら渡すと、説明書なんてついてもいないのにこころは流麗な手つきでカメラを地面に打ちたてたのであった。まるでここがエベレストの頂であるかのように。
 わたしはこころのその手つきがみたいがために踊るのかもしれない。いやそれだけではない。こころのダンス、こころの汗、こころの着替え、タオルを渡すときのこころの笑み。それらすべてをみるためにわたしは存在している。
 たとえばこれが情熱大陸だったとしよう。こころの一挙手一投足、一言一句にいたるまでこころという人物からなんの不自然さもなくあらわれたもので、すべてのものはこころを形作り、彩り、祝福するのである。それはたとえこころから生まれたものではなく、タクシーの車内であっても、流行りの喫茶店であっても、東京タワーであっても、すべてはこころを引き立てる添え物となる。するとどうだろう、その回をみたすべてのひとはこころの虜となるのだ。
 世界の中心はこころであって、というより、世界のすべてはこころであると言ったほうがよいのかもしれない。それはわたしがどう認識しているか関係なく、そうなのだ。それはどうしてか。こころがこころだからである。
「準備できたよ」
 こころはわたしに話しかけた。こころとわたしは練習していた新作のダンスをカメラの前で披露する。「hey!」の踊ってみた動画はついにこれで三作目となり、そろそろこころが飽きてしまうような気がしている。だからこれで最後だ。それはつまりこころとの練習がなくなることを意味するが、しかしそれは寂しいものではない。だってわたしはダンスの練習をするこころを夢にでてくるまで脳裡に焼きつけ、いつだって思い返すことができるのだ。だからまた違ったこころの姿をわたしはみたいのである。

 こころは汗をかいたからと言って、わたしの部屋に入った途端にシャツを脱いだ。こころの匂いが強く香った。その一瞬でわたしの部屋はこころに侵犯された。わたしは突然の行動に驚きつつもすべてを見逃さないようにこころを感じ取った。こころはシャツの下にシンプルな白のキャミソールを着ていた。腕をあげて伸びをするとキャミソールがこころの美乳に押しあげられうつくしい形をしたおへそが姿をあらわした。わたしはその瞬間にすばやく人差し指でおへそをつついていたずらをした。
「もうっ」こころはくすぐったそうに笑った。
「へへへ」とわたしは言う。
 そのまま下腹部を撫でさすり太もももお尻もおっぱいもすべて触ってしまいたかったが、わたしは自制心のある女だ。いたずらはやめ、脱ぎ捨てられたシャツを広いあげてハンガーにかけ干してあげる。このままシャツを忘れていってくれないかな、と思う。こころは挙体芳香だ、とわたしは勝手に思っている。他のひとに訊いたことはないので、こころのえも言われぬ匂いを感じ取っているのはわたしだけなのかもしれない。そうだとすれば挙体芳香ではなく、ただこころの匂いがわたしに合っているというだけの話だが、いや、そちらのほうがいい、運命的だ。
 こころはいまわたしのベッドに寝転がりつつ、わたしが買ったファッション雑誌を読んでいる。それはまったくこころの好みの雑誌であり、それはわたしがこころの好みだからその雑誌を買っており、それゆえ部屋にあるのであって、つまりはこころに読まれる運命だった。しかし、こころはそのことをわかっているのだろうか? わたしのベッドに寝転がりその雑誌を読むということを。また、わたしが半ばめくれあがったスカートからチラ見えする赤いショーツ(セクシーすぎる)に包まれたお尻の柔らかさを味わいたいと考えているということを。
 あたりまえのことだが、そのことをこころに言った覚えはないので、もちろんこころが知ることはない。
 わたしは、だからこそひどく興奮する。こころに言わせるとこころのすべてをわかっているはずのわたしが、そのような秘密をあえて抱えつつこころと一緒にいるというそのことは、なんて犯罪的なのだろう。

 なんの取り柄もないわたしなんかと深くつき合うくらいだから、こころは友達が多いほうではない。しかし学校生活を営む以上、わたし以外の友達もおり、学校ではこころとそれ以外の女の子の会話をわたしは目にすることがある。
「ごめんね、今日は亜子と食べるから」申しわけなさそうな顔をしつつ、行動でもあらわすためこころはわたしの手を握りながらそう言った。
「うん、災難だね」
 そう言うとこころは苦笑し、名残惜しそうにわたしの手を撫でてから、こころとお昼を一緒にできるのがうれしくてたまらないといった表情をした三枝亜子に迎えられお弁当を食べだした。
 こころは学校でも一種のミューズ的な扱いなので、嫉妬を買わないためにもわたしはこころを独占してはいけない。しかし、わたしの嫉妬はいったいどうしたらいいのだろう? たしかにこころは放課後はわたしとすごす。しかしそれは放課後であって学校ではないし、ましてや昼食の時間でもない。それはまったく別物だ。
 こころの全てを手に入れたいと思うのは傲慢だろうか。そうみえているからあの子たちはわたしの邪魔をするのだろうか。ならば、こころにはわたしのことがどうみえているというのだろう。
 わたしは母が作ってくれたお弁当を独りで食べている。こころは三枝亜子とお昼を楽しんでいるようにみえる。けれどそれは表面だけであって、内心はひどく辟易しているのかもしれない。しかしそんなことはわたしにわかるはずもなく、この教室でいま孤独なのは表面上はわたしひとりだけなのであって、それは内心がどうとかまったく関係なくて、誰がどうこの教室をみようとも孤独なのはわたしただひとりなのだ。
 耐えられなくなったわたしはお弁当をすばやく消費してスマホを片手に教室から姿を消すことにした。こころの姿をみなければ孤独を感じることもない。みなければこころはいつもわたしが思いだす限りわたしのそばにいて、わたしの好きな姿をみせてくれるのだ。
 こういうときはどこか広いところに行きたい。狭い空間だからだめなのだ。すべてに目が行き届くがゆえに自分がどういう立場におかれてどのようにみられているのか意識できてしまう。反対に広い場所だとそこまでわたしの想像力は働かない。だから学校でそういう場所といえば屋上なのだが、屋上に通じる階段には鎖がかかっていて、プレートには立ち入り禁止と書かれている。それを乗り越えて扉まで辿りついても鍵がかかっているため屋上にでられない。
 だからわたしは屋上の扉前の踊り場で呆然とするしかない。扉に背をあずけて廊下をなんとなく見下ろすが誰も通りがかることはなく、生徒たちの声もどこか遠くに聞こえるため非常に安心してしまう。
 スマホを取りだしてこころの練習風景の動画をみる。完璧だ。ダンスのことなんてまったくわからないし、これだけ練習しても自分ではできているのかどうかする判断できないが、こころのダンスのことだけは完璧だとわかる。本番ではない練習の、しかも音源を流さないものなのに、それはそれはうつくしいのである。
 そうやって他の動画もみているといつの間にか予鈴が鳴り現実に引き戻される。しかしそれはこころの授業風景をみられることを意味するものなので思わず早足になってしまい階段を転げ落ちながら教室に向かった。

 どういう顔をしていいのかわからない。というよりわたしはいまどんな顔をしてるんだ? こころの申しわけなさそうで、期待の入り混じって興奮しているその相貌を前にしてわたしはストローの袋をふたつ交互に折り重ねていってばねを作ることで場をつなごうとしたが、どうも浮気を告白された彼女みたいな反応のように思えて馬鹿らしくなり、半分くらいまでできたストローの袋ばねを投げ捨ててこう言う。
「べつにいいと思うけど」けどってなんだ。「……うん、わたしもそのほうがいいかな」
「ほんとに? よかった。それじゃあ返答しておくね」
 大丈夫という気がしない。こころにもしなにかあったらという単純な不安もあるし、捨てられてしまうかもしれないという不安もあるし、こころのその思慮がないように思えてしまうことも不安だ。なにを考えているのかわからない。それはあたりまえだ。けれど、ほんとうになにを考えているのか一切わからないというのははじめてのことだ。

 びっくりするぐらいすばやい出来事だった。こころがあの話を切りだし、わたしが了承したその二日後の練習の日、こころが言っていた彼が公園にあらわれた。
 こんにちは、という初っ端の明朗な挨拶から他人に馴れた性格がわかるくらい好青年だった。濃いめのネイビーのジャケットに青いシャツ、カーキのパンツにこげ茶の革靴というファッションは、ネットを通じてこうやって出会うからこそかえって怪しかった。まだオタクっぽいほうがわかりやすくてよいとさえ思える。
 けれど荷物はすごく多くて、大きいバックパックと大きいカメラバッグを肩からさげており、そこだけは好感がもてた。ちゃんと撮影しようとはしてくれるのだな。
 ところで、彼はいつの間にか名乗っており、わたしはこころに気を取られてそれを聞き逃したため名前を知らない。もしかして名乗ってないのかもしれない。こころは他人の名前を呼ぶ性格をしておらず、呼ぶとすればわたしの名前くらいで、この男性の名前も呼ぶことはしなかった。それはわたしとしてはうれしいことだが、それは気を許したから呼んでいるとわたしが勝手に思っているからうれしいのであって、こころがほんとうはどんな意味で他人の名前を呼ぶのかわたしは知らない。
 だからわたしは彼の名前を知らないままカメラを向けられ、ちょっといい感じの動画の制作に挑んだ。

 ちょっといい感じどころではなかった。後日送られてきた動画をこころと確認すると、プロじゃん? ってふたりでハモってしまうくらいのものだった。素人ながら、というか素人だからこそ編集がちゃんとしてるね、なんててきとうな感想が飛びでてしまった。いつものサイトにアップロードしてみると反応は劇的で、コメントには編集すげえという感想があったり、いつもよりかわいいというようなものもあったし、再生数もいままでの数十倍になって、一日中そわそわしっぱなしだった。
 動画をアップロードした翌日、ふたりで自分たちの動画をみてるとき、こころはこんなに変わるものなんだね、とどこか呆然としたような表情でつぶやき、その自分の言葉でなにかを思いだしたのかこんなメールがきてたんだけど、とわたしにスマートフォンの画面をみせてきた。彼からのメッセージだった。ものすごくていねいな文面で、ふたりのお陰で自分の名前が売れましたというようなことが書かれていた。読み進めると文中に動画のURLがあってなんだろと思っているとこころがパソコンを操作して、この動画だよとみせてくれた。
 ピアノをBGMに、若い女性ふたりが仲よく散歩したり、どちらかの自室でだらだらとすごしたり、手をつなぎながらベッドに寝転んだりしているようなシーンがうまくつなぎあわされている、すこし同性愛を感じさせるフェティッシュでおしゃれな動画だった。
 これのもっと健全なやつをayaとcocoroで撮りたいんだって。迷ってるんだけど、どう思う? というこころの言葉を聞いて、動画をもう一度再生させる。これをこころとわたしで? こういうものを撮影するとなると時間がかかるだろう。何度か撮りなおしもあるだろうし、いろんな場所にも行けるだろう。そのあいだわたしはずっとこころと一緒なのだ。
 わたしは撮ってもらおうよと即答しメッセージへの返信の文面まで考えつつ、こころとの撮影がどんなものになるだろうかと妄想した。こころの新しい一面をみられるだろうかと考えてみる。みられるに決まっている。

 湖畔のホテルを撮影場所として抑えたよ、まえからここでなにかを撮りたいと思っていたんだ、と彼がメッセージでホテルの情報を送ってくれて、こころとネットでいろいろ調べているうちにとても素敵な場所だとわかった。五月だから薔薇園も満開かもね、アフタヌーンティーもあるらしいよ、プールもあるけどまだ寒いしね。
 わたしはそのすべてをこころと一緒に楽しむことができる。
 その日、彼は言っていたように車であらわれてわたしたちを拾いあげてホテルへ向かった。天気は晴れており絶好の撮影日和だったが、スケジュールは日帰りで半日なので、もし曇りや雨ならばどうするつもりだったのだろうと疑問に思った。しかし曇っているのなら曇っているでそういう画が撮れるだろうし、雨であってもそうだろう。いくらでもやりようはあるのだ。
 彼はレンタルでいくつか服を借りてきているみたいで、わたしたちにも私服をいくつか持ってくるように言っていた。こころは服が好きなのでいまからいろいろな服を着られることに興奮しており、わたしにたいしても彼にたいしてもいつもよりたくさん喋ったので車内で気まずくなることはなかった。
 いくつかぜったいに撮影したいシチュエーションがある、と彼が言ったものには、薔薇園での散歩や、アフタヌーンティーなどわたしたちが予想していて楽しみにしていたものもあれば、あの映画のこうこうこういうシーンと説明されまったくイメージがわかないものもあった。けれどそうやって説明されているうちに、こころとわたしがそうやって被写体にされ役者にされ、ほんとうの意味で画面の向こう側のものとなるのだという妙な意識が芽生えてきた。いままでは、こころとわたしは自分たちで自分たちが踊るダンスを撮影していた。けれど今回はそうではない。こころとわたしが撮られるのではなく、cocoroとayaが撮られるのだ。

 ホテルには昼前に到着した、ほとんどの荷物は預かってもらって、まず制服で薔薇園を歩いているところを撮影する。着替えの必要な撮影は借りている部屋が使えるようになる三時からだ。こころは車内では興奮していたもののホテルについてからはそういうわけでもなく、ちゃんと楽しむには落ち着かないとね、とわたしの手をひっぱりながら薔薇園に向かった。
 手をつなぎながら満開の薔薇のアーチをくぐったり、わたしがこころに抱きついたりするところを撮ったが、わたしのほうからこころに抱きつくことはいままでなかったため緊張した。彼はそんなわたしの表情をみて、撮影で緊張してるのかな。けど、緊張しながら抱きつくのもかえっていいねと感想を述べる。そういえばわたしたちは撮られていたのだ。こころがまったく自然な、わたしたちふたりでちょっと遠くまで遊びにきたような態度だったため忘れていた。
 彼がいくつか指示をするたびどんどんとこころがこころじゃなくなっていくような気がした。しかしこころはどこまでも自然体のこころでしかなくて、だから変わったのはわたしのほうだったのだろう。撮られているということはみられているということであり、みられているということはわたしがわたしをみているということでもある。だからわたしは知らず知らずのうちにayaを演じていた。そのことに気づきはしたが演技をやめる理由はなかった。
 なにかが決定的におかしかった。こころとの時間を心の底から楽しんだと言える気持ちではなく、へんなじれったさがあった。そわそわと落ち着かない気分がして、だから余計にこころとのふれあいを楽しもうと意識するのだが、やはりうまくいかないのだ。けれどこころはそんなわたしをみてもいつものように楽しそうに笑うだけだった。

 遅めの昼食をホテルのレストランで食べて、拠点として使うのだという部屋に向かった。部屋はネットでみた記憶から考えると真ん中くらいのグレードのものだった。ベッドは大きく、部屋自体もさすがに広いとは言えないものの、ベッドが部屋のほとんどを占拠しているような部屋ではなく、三人がけほどのソファが一脚に、一人がけソファが一脚、コーヒーテーブルが一台というぐあいだった。
 彼が荷物から衣装を取りだしてこころとわたしにどれが着てみたいか訊ねたが、こころはどれもお気に召さなかった。たしかにどれもこころの趣味ではなかったし、というか完全に男性が好むものばかりだったので、やはりそういうところでは駄目なものなのだなと思った。
 靴だけはいいものがあったとこころが手に取ったのは、本革の黒いオックスフォードシューズだった。ヒールの高いものと低いものがあり、こころが高いほうをわたしに勧めた。これならほとんど一緒の身長になるんじゃない? と言うが、それはたぶんこころが低いほうのヒールを履かなかった場合の話だ。
 とはいえその靴を履いて撮影してみると、さきほどの焦燥は嘘のようになくなっていた。いったん時間があいたからなのかもしれないが、わたしにはそうは思えなかった。こころが選んでくれた靴を履いているというそのことがわたしを包みんで、いつものわたしに戻してくれたのだ。
 自分たちが持ってきた服も着て撮影をしていると、すぐに夕方になり、陽は沈んで行くところだった。じゅうぶん撮れただろうしそろそろ帰らなければと思っていると、唐突にごめんねとこころに謝られた。なんだろうと思って聞いてみるとこういうことだった。
 このホテルは撮影などの用途のための日帰りでは貸すことなどしていないが、しかしよい場所はこのホテルしかないので一泊借り、しかし泊まっていかずに帰るのはもったいないので三人でこの部屋に泊まっていくのだという。それは彼とこころのあいだで決定されたことで、もしわたしに話していたら反対されていただろうからいままで黙っていた。だからごめん、ということだった。
 わたしは反射的にいいよいいよと言ってしまってから、どうしたものか考えたが、いいと言ってしまったこともあるし、こころとたった数時間しかこの場所に居られないというのはすごくさみしい。それに、こころの部屋に泊まったことや、こころがわたしの部屋に泊まったことはあっても、それ以外のところに一緒に泊まったことはなかったことを考えると楽しみになってきてしまった。

 彼は夕食を食べたあと部屋でパソコンを使いはじめた。撮ったものをさっそく確認し、できたら編集もはじめるのだという。わたしたちは彼の後ろから作業をちらりとのぞいてみるが、まったく編集されていないわたしたちの姿をみるのは気恥ずかしかったので、作業の邪魔をしないようにベッドスペースでおしゃべりをすることにした。
 ベッドは四台あって、そのうちの三台がベッドメイキングされている。二台ずつで別れているため、もちろんこころと隣りあわせのベッドを選んで自分のものとした。ふたつのベッドを飛んだり跳ねたり移動して遊んで、小学生みたいであほっぽいなあと思いつつも、やっぱり何歳になってもこういうことは楽しいのだろうと思う。そういえば修学旅行は今年の末くらいにあるだろうけど、まずこころとふたりで泊まることができてよかった、とこころに言うと、ふたりきりじゃないけどね、と言われ、たしかにと苦笑した。
 こころがお風呂に行ったため、わたしは手持ち無沙汰になった。彼はパソコンに突っ伏して寝てしまっていた。車を運転し、撮影では機材をたくさん持ちながら移動し、はてには動画の確認まですれば疲れるに決まっていた。そしてわたしも撮影による疲れから眠気を感じていた。こころが戻ってきたら起こしてくれるだろうと目を閉じた。

 男性の声が聞こえる。彼の抑えたような声だ。そうだろうか? 今日一日にわたって聞いてきた彼の声とはどこか違うような気がする。彼の声に混じってこころのささやき声も聞こえる。わたしが眠っているから小さな声でしゃべってくれているのだろうか。ならばもう起きたということを示さなくてはならない、と目を開けて隣のベッドをみやると二人分の影があったのがわかった。奥にあるランプのみが灯っているためか部屋は薄暗く、またそのランプが逆光になっていてふたりの姿をきちんとみようとすると目が痛かった。
 どうも彼は裸になっているようだったし、こころもほとんど半裸だった。逆光のせいでほとんどシルエットしかわからないが、膝立ちになった彼の身体のまんなかから棒が一本生えていて、こころにつきつけられていた。はっとしてわたしは身体を起こすと、彼はわたしが目覚めたことに気づいて立ちあがろうとするがこころに腕をひっぱられて体勢を崩す。こころはそのまま彼をひきよせながら自分もベッドに倒れこみ、押し倒されるような格好になった。ここでそう思うのは間違っているのだろうが、こころらしいなと思った。これはこころが望んだことなのだ。
 彼は自分の下にいるこころをみると意を決して愛撫をはじめた。こころの首筋や、耳、おっぱい、腹、ふともも、それにわたしの触ったことのないところもだ。こころは徐々に息を荒げていき、彼の胸板や、腰などをさすってから、自然にしかるべき体勢へともっていった。こころはこういうことははじめてのはずだった。けれど手慣れていたし、わたしもその姿が当然だと思った。たいして彼のほうはすこし不自然で、童貞か、童貞でなくともほとんど女性経験がないように思われた。
 彼はどこからかコンドームを取りだし自分のものに装着した。そのようすをみてこころはうなずき脚を広げて彼の身体が入るスペースを作ってあげた。そうしてこころのなかに彼が入っていき、ふたりの影がひとつになった。彼はその流れでキスを望んだようだったが、こころはそれを許さなかった。だが彼はこころの上にいるためそのままむりやり唇を奪った。こころはすこし唸ったが、暴れるようなことはせず受け入れ、キスが終わるとしかたないなあと言うように苦笑をした。その苦笑をわたしは聞いたことがなかった。そんな苦笑もできるのか、とわたしは思った。なんてうつくしいのか。
 彼の影はそれからしばらく前後に動いた。こころははじめてだろうに痛いとも言わなかったし、痛そうな顔もしていなかった。彼はそれに気をよくしてこころを感じさせようと努力をはじめた。ただ前後に動くだけだったものが斜めに動いたり円をかくように動いたりするようになった。わたしにはそれはついていないが、きっとこころのなかを探るように動いているのだろうと思う。それはつまりこころのなかを隅々まで知るということだ。
 そう、この行為はわたしにできることではない。もちろん仮定の話をすれば指で知ることはできるだろう。けれど、男性と女性のあるべき形で知ることはない。それがわたしに訪れることは一生ないのだ。それはわたしをひどく落胆させる。けれどそんな嫉妬よりもいま強く感じているのは怒りだ。彼は、そんな秘密の場所を知るという光栄にあずかっているというのに、コンドームという薄膜をひとつ隔てている。そんなもったいないことをどうしてできるというのか。なぜ生で感じたいと思わないのか。けれど、たとえ生で感じたのだとしても、それは肉体と肉体の接触であって、つまりけっきょくは肉体という薄膜を隔てているのだ。だからそれはほんとうのふれあいではない。
 彼がある一点をつくとこころが嬌声をあげた。彼はそれにうれしくなってその場所を執拗に責めた。こころの声が甘くなっていくにつれて彼の声もすこしずつ洩れてくる。それはわたしにはかなしい共同作業のように思えた。言葉の通じない子供が交互に積み木を積んでいき、ある形にしようとしている。どちらも目指す形を内に秘めているのだが、相手が積み木を積むたびに目指す形にはならないことを悟り、いったん理想を消し去り、新たな形を相手の積んだところから想像しなおす。お互いがそのようにしているうちに、相手が自分が次にどう積むのかわかっているような気がしてくる。そうしてお互い笑いあい、積みあがったときにはまったく理想どおり積み木ができあがっている。しかしそれはあとで考えなおしてみると、最初もっていた理想の形とはまったく違ったものになっていることに気がつく。あのときの積み木の協力はふたりで仲よく遊ぶためのおままごとみたいなものだったのだ。
 だからセックスというのはおままごとなのだ。そのときの肉体的接触をお互いが相手の望むように演じることでふたりのセックスとして完璧な形までもっていくことが目的の演劇みたいなものだ。だからお互いがきちんと演じられれば完璧に理解しあうことができ、完璧に終わることができる。満たされる。
 けれど、わたしは終わりたくないのだ。こんな仮初の満足を得たいとはまったく思わない。だからこそわたしはこころを知りたいと思ってもそれを実行しないのだ。
 こころと彼の演劇が終わる。わたしは立ちあがりベッドを降りて、こころたちのベッドへと向かう。ランプのそばまでくるとふたりの表情がわかった。満ち足りたような表情だ。だからわたしは幕を閉じるかわりにランプを消してあげた。

 こころとわたしはいつもの生活に戻った。こころは彼についてはこう言った。満足しちゃったら駄目だよね、という感想だった。満足しちゃったらそこで終わっちゃう、それ以上がないもんね。
 でもあやはわたしのこと完璧にわかってるもんね。
 わたし、こころのことなんてぜんぜん知らないよ。
 それがわかってるってことだよ。だってわたしはずっと変わっていくから終わりはないし。だから知ってるとかわかったとか嘘になっちゃうよ。
 そうだ。こころは終わらない。いつまでもわからない存在で、だからこそわかりたくなって、だからこそうつくしくて、だからこそひとを惹きつける。
 しかしそれでもわたしはわかることがあって、それはわたしがこころのことをわかっていないということをわかってくれているということだ。そう考えると鼻の奥がつんとなって思わずこころに抱きついてしまう。
 こころによしよしと背中を撫でられながらこころの強い匂いをかいでいると、そういえば撮影のときにこころの匂いを意識したことがなかったことに気づいた。ひさしぶりのこころの匂いだった。そうか、とわたしは思う。わたしはいまはじめてこころに抱きついている。撮影のときに抱きついていたのはayaであって、わたしではない。やっぱりわたしがわたしのときでないとこころの匂いを感じることはできないのだ。きっとこの匂いはこころとわたしがわかり合えないことをわかりあっているそのことの証みたいなものなのだ。
 こころの匂いがわたしの肺に届き血中に融けて全身に染み渡ってゆく。そうしてそれが肌から蒸発してわたしの匂いとして弱く放たれると、こころのなかに染み入ってゆくのだ。この世界でそのくり返しが終わる場所はない。

(二〇一六年一一月一五日 自室にて)
(第一回文学フリマ京都にて頒布の『こなっつ vol.1』に完成稿が所収)

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久慈くじら
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