世界は終わったあと
世界は終わったあとまた復活し現在は七回目の世界らしい。クロアチアの詩人がそう言っていたので本当のことだと思う。ぜったいに実感できないけど。
なぜ実感できないかというと終わるというのはほんとうに終わってしまうからだ。たとえそれが本当だとしてもたとえあんたがクオリアを持っていなかったとしても僕はわかりようがない。だから結局人間というのはひとりぼっちなんだって。
人間はひとりで生きているわけじゃないとかいう言葉をよく聞くけどそんなものはまやかしで人間はひとりでしか生きていないのだ。それは本質的な生ではなく社会的な生のことを言っているわけで僕はべつに社会的な生はどうでもいいと思う。「社会的」がつく言葉はだいたいが金持ちや権力者のための都合のよいものなわけで金持ちでも権力者でもない僕たちは社会的なものに縛られる必要なんてまったくない。社会に縛られないと生きられないような弱くて強かでプライドが欠片もないひとたちはそりゃ社会に縛られたほうが生きやすいのだから縛られたらいいさ。それは迂遠な手続きを経た動物的な生である。
せっかく知性を持っているのに資本によって本能のみで生きられるようにするのは迂遠というほかないだろう。本能だけで生きたいのなら山で暮らせばいいじゃないか。なぜわざわざ搾取されなくてはならないのだろう。だからそうやって世界は滅びた。六回も。
六回も滅びたというのに七回目の世界もそんなによい世界じゃない。でも僕は前の六回の世界を観測したわけではないので以前の世界と今の世界を比較することなどできないのでもしかして以前の世界に比べたら今の世界はパライソなのかもしれない。でもだとしても七回目の挑戦にもなるともっとよい世界ぐらいつくれると思う。この世界をつくったやつは相当センスも学力も教養もない。
で、たぶんだけど、というか、直感でしかないのだけど、神はいない。けれど世界を作ったやつらはいる。僕たちだ。
決定論を信じるひとは物理学(といっても今現在わかっている物理学じゃなくて、物理学の行き着くもの)が世界を作ったと思うだろうが僕は決定論を信じていないので世界を作ったのは人間だと思っている。
センスも学力も教養もない人間は七回目の世界をこのように生きづらく作ってしまった。けれど人間はセンスも学力も教養もない生き物なので人間というものが生きる世界はかならず生きづらいものとなる。しゃあない。
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