2019-07-19-0:22

 これは誰かに読まれるために書いていない。
 こういったことがあったとき、なにかを言うことは非常に困難になって、賢ければ賢いひとほど、言葉にならない、と言ってしまうし、自分もそうやろうと思っていた。それじゃいけないというわけではないだろうし、たぶん最善の方法でもあるはずだ。
 とはいえ、わたしたちは、このような野蛮な行為にたいして、ただ耐える、という方法しか取れないのであろうか。海外ではクラウドファンディングがはじまったそうだ。金が集まればいいのか、とか、今そんなことしても意味がない、とか言うひとがいた。実務的にはそうかもしれない。ただ、これは金を集めるだけの行為ではない。悲しみを、人間の好意や祈りで覆い尽くそうとする行為でもある。むしろその側面のほうが強いだろう。テロは突然やってきて、悲しみと怒りをとんでもない力で撒き散らして去っていく。今までわたしたちが非常に弱い力で積み上げてきたものを、一瞬で崩してしまう。不思議なことに、負の感情は瞬発力がある。だからひとつの悲しみにたいして、とてもたくさんの祈りを必要とする。個々の力は非常に弱いので、たくさん集まっても弱いままだ。だからその力を信じられないひとも大勢いる。それではいけないと思う。
 このわたしたちの祈りに力があるのだ、ということを教えたり、実践するのがフィクションである。京都アニメーションのフィクションは、じっさいに多くの人間を救ったはずだ。それゆえに、このようなテロの標的となることに、わたしたちは非常に繊細となった。祈りの象徴みたいなものだったからだ。
 わたしたちはゆっくりやっていくしかない。ときおり凄惨な事件が起きるだろう。すぐ明日になくなるものではないし、また人間が人間である限り、なくならないものだろう。だからわたしは、フィクションを書いているのだろう。わたしたちは祈りの途中にある。やめてしまってはいけない。

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久慈くじら
小魔術