やさしい嘘

 世の中にはやさしい嘘というものが存在する。他人のことを思いやって吐く嘘のことだ。でも、どうしてその嘘をやさしいと判断できるのか、僕にはわからない。だって、その嘘がバレてしまったとき、それはやさしい嘘ではなくなってしまうし、でもそれがやさしい嘘なのかどうかは相手に聞かなくてはわからないからだ。だからやさしい嘘というのは、相手にとってやさしい「だろう」嘘でしかない。それはやっぱり嘘を吐く人間のエゴではないだろうか?
 だから僕はそのやさしい嘘が嫌いだ。正直言って、僕が死にたくなるくらい悲しくなることの原因のほとんどはそのやさしい嘘が原因だった。やさしい嘘は、嘘を吐く人間がなにかを我慢しなくてはならなくなる。僕はそれが耐えられない。そんなふうに、自分を傷つけるという快楽を伴う行為と、他人を思いやるという行為、両方ともとれると思っているその根性が許せない。
 ふしぎなことに自己犠牲は快楽だ。なぜなのかはわからない。でも、快楽を伴わなければ、自分を犠牲にし相手を救うということはできない。そうだ、性行為が快楽を伴うのは、出産や子育てに命の危険があるからだ。その危険をわからなくするために快楽がある。だから自己犠牲が気持ちいいのは、自分が傷つくのをわからなくするために気持ちいいのだ。
 だから僕は、対人関係では、やさしい嘘であっても絶対に吐かないようにしているし、嘘を吐かないこと、すべて本心であることをくり返し強調し、相手にも本心で話すことを勧める。そのスタンスでやって来た僕は、ある程度つき会えた人間も、僕と同じように本心で話してくれていると思って生きている。だって、なにもかも本心で話している人間とつき合うというのに、自分は嘘を吐いているなんて良心の呵責に耐えられないはずだからだ。
 だけど、しばらくつき合ったかの女はそうではなかったらしい。やさしい嘘を吐いて、我慢して、言いたいことを言わずに(僕はずっと言わなければなにもわからない、人間は言葉というものがある、とくり返し言った。そしてかの女は僕のその言葉に、うん、と言ったはずだった)、自分で勝手に傷ついて、それらすべてを僕のせいにし、そして僕のことを、自分はなにも傷ついていなくてよかったね、と言いながら去っていった。
 悲しいことだ。数年間も一緒にいたのにな。僕は尽くせる言葉はすべて尽くしてきた。かの女はそうじゃなかった。当時はずっと、察してもらいたいという気持ちがあったからそうしているのだと思っていた。もちろんそれもあるだろう。でも、そうやって耐えているのが快楽だということに、僕は気づいていなかった。黙して相手が語りかけてくる言葉のすべてを受けとめる。自分はやさしい嘘を言い返す。かの女のなかには、僕の本心が溜まっていってはち切れそうになる。苦痛で、でもそれが気持ちよかったんだろう。そうだ。かの女はお腹がはち切れそうになって苦しくなるくらい食べてしまう癖があった。そういうことなのかもしれないな。
 と、こういう物語を作れば自分のなかで納得がいく。お前はそれでいいと思うか? これは暴力ではないか? やさしい嘘となにが違うと言うのか? そのとおり。だから僕は今書いたことをすべて忘れることにする。こんなことは妄想にすぎない。過去のことであっても他人は他人だ。記憶のなかにあっても他人は他人だ。それはフィクションではない。だから自由に書き換えることは許されていない。ああ、だからひとはポエムを書くのかもな。自分にも、相手にもわからないように作り変えてしまおうってな。

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久慈くじら
小魔術