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チリコンカーン

 戦後、飢える列島に再来した黒船は、脱脂粉乳と小麦、そして給食を置き土産にして帰っていった。
 教科書にはそう書かれていたはずだが、海の玄関口であるこの都市には、いまだに中学校給食が存在しない。子供たちにスティグマを与えないということが完全給食の原則であるならば、ハマ弁という名の冷や飯はそれに値しない。
 そして、献立表が届くとはじまる論争。
「頼むから週二はハマ弁で堪えてくれ」
 親は眉を垂らして俺を拝む。
「カレーは絶対外してくれ」
 俺は毅然とそれに対峙する。
「カレーが嫌なのか?普通、盛り上がるだろう?」
「冷たいカレーなんて誰が食いたいと思う?」
 飯が冷めている問題は、1960年代、当時の文部省『学校給食のしおり』においても、センター方式の給食問題として指摘されている。
「教室に電子レンジがあればいいのにな」
 ハマ弁に至っては冷めているのではない。冷やしているのだ。食中毒が出ては困る大人たちがいるから。
「コンビニだって弁当は温めてくれるよ」
 昼休みは45分程度、そのうち昼食の準備時間が5分、実際に食事する時間が15分程度の学校がほとんどだ。電子レンジ案が通過するなら、各教室に5台は用意してほしい。
「チリコンカーン?」
 戦後の統治者たちは、コメの食べ過ぎが栄養的な偏りの原因だという説を広めてGo Home Quickly。その後、この国の給食に立ちはだかった最大の壁が当時の大蔵大臣池田勇人だった。
「所得の少ない人は麦を多く食べ、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副ったほうへ持って行きたい」
 所謂「貧乏人は麦を食え」発言である。そして、この都市では「子どもは冷や飯を食え」とされている。確かに餓えの不安はない。未だ昼休みになると姿を消す子どもがいるこの国では、冷たい飯でも食えれば文句が言いにくい。
 それでも、そのまずさが問題となって、給食廃止論が持ち上がったことだってあるという。
「政府は子どもの食事まで強制するのか。まるで共産主義と同じではないか」
 どこか論点がずれている。 
 戦後の黒船がこの国を統治していたころから、共産主義的な理想と一線を画し「自立した個人」を育成するためとして、無償給食の制度化は否定され続けている。
「いまなお欠食児がいるのは政治の責任」
 新聞で目にした『岩手の辺地にかおるスズラン給食』の報道が、心ある首相の胸を打つことだってあった。全国の僻地まで温かい給食を届けるべく、予算4億円を緊急支出することを決めた。
 毎年1000ヶ所以上の子ども食堂が拡がり続ける昨今、菊の花だけで2000万円、総額37億円の葬式だ。キャリーオーバー中の宝くじでも当たったか。
 俺たちは行動する。中学校の正門にタテカンが現われた。水玉のポップな看板には「ハマ弁阻止」と書いた。

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