見出し画像

うたかた

 その土地に縁も所縁もない俺が、なぜ多額の供託金を支払って立候補することを決めたのか。それは一票の格差を是正するためとの理由で、強制合区に押し込められた県民とともに怒りの声を張り上げるため。合区となった二県が、国政に対して異なる期待をした場合にはどうなる。両県民の思いを反映させることができないではないか。地方の国会議員ばかりを減らしてどうする。都市との格差はますます広がっていくばかりではないか。
 
 去年の夏にストックした五〇〇ミリリットルのポカリスエットを常温で一気飲み。空のペットボトルが必要だったから。白いペンキに詰め替えてからカルピスの方が自然だったかしらと下唇を噛む。それでも青と白のコントラストが美しい。

 その土地には縁も所縁もない俺だ。立候補したところで勝ち目はあるのだろうか。はじめから勝つことが目的ではない。そう腹をくくって立ち上がる輩はいくらもいる。この問題に一石を投じ、二県で一議員なんて半人前扱いされた県民の怒りを全国に知らしめる。その目的だけで何百万という金を支払う覚悟があるか。政見放送で「スクラップ&スクラップ」と声を張る。街頭でレオタード姿になってマラカスを振る。先人のやり方を倣ったところで得られるインパクトは知れている。

 リュックサックの両脇にはサイドポケットがないと許せない。左手を伸ばして右ポケットから折りたたみ傘を引っ張り出す。右手を伸ばして左ポケットからペットボトルを引っ張り出す。不意の雨から身体が濡れるのを避けるため。渇いた喉をいつでも潤せるように。外はからっと。中はしっとり。

 その土地に縁も所縁もない俺には土地勘がない。合区となった彼の地で選挙活動をしようとなれば、四国の東端から西端まで移動するだけでも大変なことだ。鳴門から宿毛までおよそ三〇〇キロメートル。一般道を走ったら車で六時間。「一日の総走行距離の限度として、高速道路なら五〇〇キロメートル、一般道なら二五〇キロメートルぐらいを目安としましょう」日本自動車連盟だってそう言っているではないか。こっちはワンボックスの選挙カーだ。高速道路を疾走するわけにもいかない。それにしても、JAFのステッカーを見る度34Fって戦闘機かしらと見紛う。そいつはどうでもいい。

 ペンキ入りペットボトルは左サイドポケットに突っ込めばほとんど隠れてしまう。窓の外は雲一つない青空。右サイドポケットには喉を潤すための一本を差しておくべきかしら。しかし、両のポケットにペットボトルを差して歩いている自分を思い浮かべれば、何処か妙ちくりんだ。

 その土地に縁も所縁もない俺にとって、四国横断ローカル列車の旅には多分な魅力を感じている。JR鳴門線、JR徳島線、JR土讃線、土佐くろしお鉄道中村線、土佐くろしお鉄道宿毛線、乗り継いで乗り継いで一一時間。乗換駅で街頭演説を挟んだならば片道だけで二日間は必要だろう。なんのために生まれてなにをして生きるのか。こたえられないなんて、そんなのはいやだ!JR土讃線と言えばあんぱんまん列車ではなかったかしら。「父ちゃん、あんぱんまん列車に乗ったことがあるんだぜ」息子に自慢する無精髭の自分を思い浮かべるが、その前に嫁を捕まえるハードルが高くそびえ立つ。

 右サイドポケットにはやはり折りたたみ傘を差しておくべきだろう。窓の外は青空。家に帰るまで雨が降らないとも限らない。テーブルに置かれたスマートフォンを二、三タップすれば天気予報にたどり着ける。降水確率〇パーセントなどと目にしてしまったら心が揺らぎそうだ。腕を伸ばして傘を握ると無造作に畳んで差し込んだ。

 その土地に縁も所縁もない俺が言うのもなんだが、一つ苦言を呈する。前回、令和元年七月二一日執行の第二五回参議院議員通常選挙において、徳島県は全国最低の投票率三八.五九パーセントを記録した。その時、既に平成二八年の第二四回参議院議員通常選挙に続く二度目の強制合区。高知県から出た自民党現職・公明党推薦の議員が再選した。徳島県現職は第二四回から比例区に回されたのだ。そして、自分の名前や政策を連呼することもなく比例特定枠で当選。投票する気が失せるのは無理もないことなのか。その一票を持って公職選挙法の改悪を推し進めた現政権にNOを突きつける気概はなかったか。
「誤解が生じているならお詫びの上で訂正します」

 喉を潤すための一本を左サイドポケットにさして、ペンキ入りペットボトルをリュックサックの中にしまうという選択肢もあるだろうが、今回に限っては避けたいのだ。〇.三五Lサーモス真空断熱ケータイマグにカフェインレスコーヒーを用意して、コートのポケットに入れておこう。

 その土地に縁も所縁もない俺は、どんな政策を打っていけばいいだろう。一票の格差ごときがなんだと声高に叫ぶだけでは、県民の心には響かないだろう。四国のへそに立って東京者へ難癖でもつけようか。自ら望んでニッポンのへそへ吸い込まれていった分際が、いちいち文句を言うな。勝手に群がって俺の一票には価値がないと嘆くくらいなら四国へ来い。ここではおまえの一票は三倍以上の価値を持つぞ。合区となった今だって一.五倍以上の価値はある。ニッポンのへそが東京だというのならば、四国には三好がある。ルポタージュ絵画に土着のイメージや寓意性を重ねた山下菊二の出生地でもある四国のへそだ。

 カフェインレスに何かこだわりがあるわけではない。母さんがネスカフェのカフェインレスだったから。身体にいいだろうという刷り込みがされている。ラベルにはポリフェノール習慣一日三杯と添えられている。上質を知るヒトでありたい。

 その土地には縁も所縁もない俺であるが、山下菊二の作品には呑まれる。ビールケースをひっくり返して、拳を握りながら叫ぼうか。
「私はあくまで真実は曲げられないとして戦うヒトとともにありたいと思う。私の表現がその戦いの一環となり得ればと願っている」
 山下菊二の言葉だ。母に「生きて帰ってこられたら帰っておいで」などと送り出された出征地では、剣先シャベルを握り、自分でさえ思いも寄らないほど残虐な行為をはたらいた。生きて帰れば因襲の絶えない村で被害者面を下げて過ごすことになる。そんな中、曙村で起きた活動家と貧農による地主襲撃事件。四国の事件ではないが、山下菊二は現地へ入り代表作「あけぼの村物語」として描き上げた。作中に地主らしき人物はいない。地主視点から描かれた被抑圧者の姿だという。顔の見えない貧しい娘、首を吊った老婆、溺死した活動家、人間とは異なる秩序や視点で佇む動物たち。矛盾を抱えた画家の心の奥底から湧き出るイメージを現実世界に溶かし込んだ。

 春物トレンチコートのポケットにネスカフェカフェインレスの入ったサーモス〇.三五Lサーモス真空断熱ケータイマグ、リュックの右サイドポケットには自動開閉折りたたみ傘、左サイドポケットには白ペンキを詰め込んだペットボトル。俺はブーツの紐を結んで、青空の下へ踏み出す。

 その土地に縁も所縁もない俺ではあるが、一枚の青写真があった。四国のへそに一大テーマパークを造り上げる。そして、新規事業とともに県民を取り戻す。遂には、強制合区などという公職選挙法のふざけた規定をひょいと乗り越えるのだ。社会問題を取り入れながらも安易な解釈を拒むテーマパーク。「四国あけぼのリゾート」、もしくは、「あけぼのスタジオ四国」でもいい。一歩踏み入れれば封建的な村、閉塞的な空気、そっとのぞき込むように意地悪い視線、永い因襲的な対立に吸い込まれるような不安感。「あけぼの村物語」を肌で感じることのできる体験型アミューズメント施設である。もともとあの油絵は紙芝居として制作される予定だったという。農民視点、地主視点のどちらからでも物語に参加することができます。老婆はどうして首を吊ったのか。活動家の死因は本当に溺死だったのか。ミステリー要素をふんだんに取り入れ、作品を知らない来場客も飽きさせない。そして、不穏な空気の中、赤犬、魚、鶏たちの視線が突き刺さる。
「おまえもだろう」

 折角の青空ではあるが、俺は地下へ地下へ階段を折り返す。東京メトロを乗り継いで目的地を目指す。

 その土地には縁も所縁もない俺だが、繊細な画家を生み出した土俗の闇に惹かれてしまう。現在、「あけぼの村物語」は都内の美術館に所蔵されている。俺はまた一三七センチ×二一四センチの世界と向き合っている。闇を抉るように描かれた不可思議な油絵。画家自身、あの凄惨な事件の前から曙村と接点があったわけでない。それでも貧農たちの襲撃と激しい闘争があったことを認め、地主へ変革を求めるために武力は必要であったと擁護している。現代を生きる俺の脳みそは、武力は最低だという立場をとることが無難であると教育されている。

 入館の際、ペンキ入りペットボトルについて指摘されることはなかった。ただし、リュックサックは前向きに背負えとのこと。俺はペットボトルと折りたたみ傘を操縦桿のように握る。自分の肉体をコックピットから操っているような気分だ。

 その土地に縁も所縁もない俺が支払う供託金は三〇〇万円。どこの政党にも属さなければ、選挙区以外に戦いの選択肢はない。有効投票総数を改選定数で割り、八分の一以上の得票がなければ、没収されて国庫に納まる。次回、議席の半分を開け放ち、一二一の椅子取りゲームを争うのは二年先。一度決めたこととは言え、この思いが持続するかどうか保証はできない。なにせその土地には縁も所縁もない俺なのだから。

「不合理なことへ口を瞑り、抑圧するものへ帰属し、服従する日本人の体質そのものであった」

 その土地には縁も所縁もない俺に、山下菊二の声が尻をたたく。首から下を地面に埋められた逃亡者とその耳をシャベルで削ぎ落とさなければならなかった新兵。戦争手段を持つ階級に弄ばれる不条理を嘆く前に、逃亡者の首は焼かれていた。

 展覧会に出した作品であっても、自身が満足できないものであれば何度も筆を入れ直した。いくら家族がもったいないと止めたところで真っ白に塗りつぶしてしまうこともあったという。写真で残っていたとしても原画が現存しない作品は多数。

 その土地には縁も所縁もないはずの山下菊二が描いた曙村。今では身延町へと名前を変えた。それでも油絵の放つ不安感や閉塞的な空気は、あの赤茶けた水に浮かぶ魚のように、いつまでも鼻にまとわりついている。

 戦後七五年、未だ他人の不幸に驚くほど冷淡な態度をとることのできるニンゲンがいる。そいつは未だ一部の階級に与えられる特権なのか。溜息、舌打ち、痰を飲む。抗う気概はあるか。毎度のごとく自問をしては、いつものように口を瞑ったまま。ただまっすぐ赤犬を見つめ、己の親指を握りしめる。ひどく喉が渇く。あくまで真実は曲げられないとして戦うヒトの言葉、抑圧するものをひょいと乗り越える言葉、どこかに隠れてはいないか。俺の右手が操縦桿を引き抜き、左手がキャップを捻る。真っ白な液体を頭から浴びせ、無様な自分を塗りつぶす。一三七センチ×二一四センチの世界に目を見開き、再び声にすべき言葉を探しはじめる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?