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千と千尋と金具屋たてもの論

この記事は2020年に金具屋九代目ブログに投稿したものを調整したものです

はじめに(結論)

湯屋・油屋

長くなりそうなので、先に結論から。

2001年7月の「千と千尋の神隠し」公開以降、『金具屋の建物がモデルなのではないか』という噂が広まっていき、国内だけでなく海外からの問い合わせや、世界ふしぎ発見などのメディアでも千と千尋とからめて取り上げていただくようになりました。20年以上たった現在においても、『モデルなのでは』という疑問や問い合わせは多く、真相は不明となっています。

しかし2018年に、少しヒントになるような出来事がありました。
「千と千尋」にアニメーターとして参加されていた方が金具屋に泊まりに来られて、運よくお話を聞くことができたのです。
泊りに来られたきっかけは、2017年の秋から放送された「このはな綺譚」というアニメ作品。製作終盤にその方がヘルプで入った時に『これ、描いたことあるわ、金具屋じゃないか』と思い出し、泊まりに来てくれたのだそうです。

実際、アニメ「このはな綺譚」では、金具屋が舞台・建物設定に協力をし、監督さんが『完全再現を!』目指していただいたもので、壁のキズまでリアルに再現されております。(とてもいい話なのでチェックしてみてください!原作も連載中です!)

で、なぜそのアニメーターさんがこのはな綺譚の建物を「金具屋だ」と気づいたのかというと、千と千尋に取り掛かる際に宮崎駿監督から説明をうけたのだと。この映画でつくる建物はこれこれこういう様式で~とその際に参考として名前を挙げながら紹介していた建物のひとつに金具屋があったので、それで覚えていた、ということでした。

この話は駅へお送りした際のわずかな会話で、実際に本当の話なのか裏をとることはできません。なので「真相」とは言えないものの、考察のヒントにはなりました。

「モデルにしたのではなく、建築様式の参考として使用された」

では、その建築様式とはなんなのか。

藤森先生と擬洋風建築

2001年、くしくも千と千尋が公開される年の4月に、私は大学を卒業して宿にはいりました。大学時代の知人で雑誌社に就職した人がいて、「21歳で老舗の旅館を継ぐなんて面白いから取材したい」という話をもらい、仕事はじめたばかりの時に取材され、「おふろたび」という雑誌の創刊号の特集になりました。
その取材の際に、”金具屋の建物を解き明かす”というコーナーで、書籍「建築探偵シリーズ」や「ニラハウス」「空飛ぶ泥舟(茶室)」で有名な藤森照信さんがやってきたのです。一緒に館内を巡りながら金具屋の建物を面白く、興味深く説明していただきました(それが現在私が毎日行っている金具屋文化財巡りをはじめたきっかけです。登録文化財への申請も藤森先生きっかけなのです)。それを機に藤森先生とは親しくさせていただいております。

時は飛びまして、2014年、「ジブリの立体建造物展」が開催されることを知りました。なんとその立体建造物展はその藤森照信先生が監修されているとか。すべての用事を押し切って、小金井まで見に行きました。小金井の江戸東京たてもの園、藤森先生の本にも出てきますが【看板建築(様式)】が移築されるさまざまな時代の建物が街並みになった施設です。

看板建築の建物をモチーフにした街並み

そして2年後の2016年、なんと長野県信濃美術館で「ジブリの立体建造物展」が開催されることになりました。しかも初日は特別講演として藤森先生がジブリの建物についての講演も行うという…。そりゃもう激務の土曜日だろうがなんだろうが、即チケットをとりすべての用事を押し切って見に行きました。講演会の整理券も無事ゲット。藤森先生と千尋の声優の柊瑠美さんの解説音声レコーダーを聞きながらじっくり見ることができました。

長野県信濃美術館「ジブリの立体建造物展」

この立体建造物展で、千と千尋の湯屋の巨大なジオラマがあり、これは【擬洋風建築】なのだと藤森先生が解説されていました。
つまり千と千尋に出てくる建物は、主に看板建築と擬洋風建築でつくられているということになります。

(※ただし、擬洋風建築という言葉自体は明治時代を中心に建てられた洋風を装った和式構造建築のことを言うことが多いようです。逆のパターン、つまり湯屋のように「和式を装った洋式構造建築」「和洋折衷の建築」は広義の擬洋風建築ということになります)

そして考察

ここまではほぼ事実を書いてきましたが、ここからは想像、考察ということになります。
きゅうだいめはこう思っている、というひとつの説としてお考え下さい。

そもそも千と千尋の神隠しのあの世界というのはどんなものだったのか。

あの世界では現代の日本ではなくなってしまった神様や川、風習(風俗)などが登場します。
湯屋で「おもてなし」をする女性は仲居さんではありません。あれは「湯女(ゆな)」といって、かつての温泉街では女性の職業のひとつでした。「水汲み女」や「飯炊き女」と公には言うのですが、渋温泉もその最大温泉街の一つで、かの佐久間象山に湯女追放令をだされるほど(それに対抗した女性デモ行進が湯田中渋につたわる無形文化財の「湯女追太鼓」)。どんな「おもてなし」だったかは各自調べて下さい…と、言わざるを得ないようなことについて堂々とアニメ映画で描くあたりが宮崎駿監督ならではなのですが、つまりは、日本ではなくなってしまったものが集まる狭間の世界と言えます。

↑湯女、劇中ではナメクジ女となっている

建物についても同様です。
お父さんが「テーマパークの残骸だよ。90年代にあちこちで計画されて~」というセリフでもわかるように、建物も現代の日本では消えてしまった建築が出てきます。その大部分をしめるものが、街並みの【看板建築】と湯屋の【擬洋風建築】なのです。

ジブリの立体建造物展で藤森先生は湯屋を擬洋風建築と解説していました。
擬洋風建築の定義というのは正式にはないようなのですが、私は文化財巡りでは洋式構造の和風建築のことと説明しています。
金具屋では文化財になっている木造4階建ての斉月楼も大広間も擬洋風建築。
正確な言い方ではありませんが、簡単にいうと和式構造は内骨格、洋式構造は外骨格のような構造といえるかと思います。

洋式構造では建物の一番外側が通し柱となっており、建物自体が寸胴になります。
千と千尋の湯屋が日本の建築としては異様にみえるのはそこで、1階から最上階まで同じ太さで、それを覆うような大屋根がのっています。
金具屋の斉月楼も同じように1階から最上階まで同じ太さで、それを覆う大屋根がのっています。
(ちなみに大屋根の色が緑でムクリという共通点もあります)

金具屋斉月楼

とはいえこのような擬洋風建築は決して珍しいものではなく、大正から昭和初期には全国各地にみられたもの。
現存するものでは目黒雅叙園の百段階段(昭和10年)、富士屋ホテルの花御殿(昭和11年)などが有名です。(金具屋斉月楼は昭和11年)
大正デモクラシーを経て身分に関係なくどんな建物でも建てられるようになり、常識をやぶる多種多様な建物が建てられた時代だったのです。

しかしその独特な建物の時代も太平洋戦争で都市部のものはほとんどが消失してしまいます。

立体建造物展の講演会の最後に私が藤森先生になぜ擬洋風建築が戦後つくられなくなったのかを質問したところ、とにかく合理性がない、経済の成長にしたがって、より効率よく建物を建てることが最優先されるようになった為だろうということでした。戦火を免れたものも、時代に合わぬものとして次々と取り壊されていきます。
華やかな一瞬の時代の産物だったといえます。

それを宮崎監督が日本からなくなってしまったものとして、作品に登場させたのではないでしょうか。
たまたま、たまたま地方の一部の旅館で現存している例を参考資料として使った、そのうちのひとつが金具屋であったのだろうと思われます。

「あんなものはどこにでもあったんだ」

この監督の言葉がやはりすべてということです。
現存の建物、街並みをモデルにしたのではなく、あの時代の建物を描いた。それだけのことなのだと思います。

ちなみに台湾のキュウフンも1920年代に日本の藤田組がつくった街並み。あそこもその時代の街並みがたまたま台湾に残っていた、ということなのでしょう。

千と千尋と金具屋たてもの論は以上です。
とりあえず、この後またアッと驚くような情報が入らなければ、これを完結編としたいと思います。

画像は、(c)スタジオジブリ、です(使用可能なものを使っています)。
この映画が製作されたおかげで、我々古い木造建築の旅館の価値が大きく見直されることになりました。バブル期にはただただ古くボロくみっともないものだったのが、世界に誇れるものとなったのです。千と千尋がなかったら、さらに数多くの木造旅館が姿を消していたと思います。
金具屋もこれだけ注目されることは決してなかったでしょう。
あらためて、本当に、感謝申し上げます。

長文、ご覧いただきありがとうございました!

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