
Livin' On a Prayer
2013年の8月、大阪の夜、酷暑と呼ぶのがふさわしい午前1時。
国道沿いの家。毎日見ていたこの道を500キロメートル東に進めば、日本橋にたどり着くことを知るのはもっと後のことだった。
あの頃は確か14歳で、物事の善悪を理解することはできても、一人で生きるには不十分で、自分以外の世界を何も知らなかった年ごろだった。もちろん、「東京」など自分の頭には存在していなかったときの物語だ。
6畳の部屋に家族4人で眠りにつく。
その時、正確には、2つのルールがあった。
明かりを完全に消してはならない。
そして、自分の意志で音を立ててはならない。
それらは彼女にとって刺激となる可能性があるから。
あの時は、小さい豆電球が照らす仄暗い闇の中で、家族の呼吸音だけが聞こえることに安心していた。実際には、その静寂は常に緊張の集合で成立していた。
すぐ隣で何かが動き出す音がした。
薄く目を開けて確認する。体内にある危険物を取り出そうとする私の母にあたる人の姿だった。
彼女の体内にあるのは高性能の盗聴器だと私は知っていた。それも、音声の受信も可能な当時の最新型。受信される音声は、彼女の意志とは関係なく絶え間なく、指令めいた内容を送り続ける。私たちの一挙手一投足は監視され、危険と隣り合わせの生活を余儀なくされていた。
だからこそ、私は自分の意志で明かりを消すことも、音を立てることも許されなかった。
人体は鋭利なモノで皮膚をえぐると、必ず傷つき、出血する。そして痛みが生じる。その代償を伴ってでも、今夜、母は私たちを守るためにその盗聴器を取ることに決めたようだった。
正確には、その挑戦は初めてではない。耳の軟骨に埋められてしまった機械はそう簡単には取れない。尖ったステンレス製の耳かきと血にまみれた洗面台。その挑戦がうまくいったことはなかった。
かすかに見える寝室の明かりの中で、動く彼女の影。機械を取り外す挑戦の途中で、彼女だけに聞こえる新たな指令が来てしまった。
「ここを今すぐ逃げないと私達は危ない。とにかく遠い場所に行こう、沖縄ならきっと大丈夫。みんなの分の航空券は用意してくれるから、早く。」
絞り出した母の声、音は小さくとも叫んでいる。深夜に荷造りをする。
ついに最悪の事態が起きてしまったようだ。
すぐに彼女は家を飛び出した。彼女は国道の前で、空港に行くためにタクシーを止めた。逃げようと言われてから、3分も経っていなかった。この奇跡的なタイミングで目の前を通ったタクシーに皆が乗り込まなければ、私達は生き延びることはできないかもしれない。できるだけ早く、空港に向かい逃げ切らなければならない。
私も追いかける。ただ、他の2人は付いては来ない。私だけが安全な場所へ導いてくれる希望のタクシーに全速力で走った。たどり着いた。
そして、私はタクシーに乗る彼女を引きずり降ろした。
14歳は物事を理解するには十分な年齢だ。私は知っていた。
そのタクシーに乗ってはいけないことを。私は監視されていない。私が彼女を監視していた。盗聴器は存在せず、ただ在るのは血にまみれた母だけということを。ましてや、沖縄行きの航空券などあるはずもなかった。だからこそ、私以外の誰も付いては来なかったのだ。
私はその時までルールを信じていた。しかし、ルールは厳密にはルールではなかった。自分が順守すれば果たされる何かがあるわけではなく、単純に彼女の中だけで成立していた世界の掟に過ぎなかった。そして、ルールを守ることでこの状況から少しでも救われるとも信じていた。
我が家の部屋はまだ3つ余っていた。
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2021年の11月の宇都宮、関わるはずのなかった街。寒くなっていく内陸の奥の街。オリオン通りを目指して一人で歩く。
なぜこの街にいるのだろう。馴染みのない田川の橋を渡る。
「Livin' On a Prayer」が耳元に流れてくる。私もトミーとジーナのように「祈りながら生きる」ことができたら救われただろうか。
もし彼らの言う「今あるもの」が過去の物語の蓄積なのだとすると、私に「今あるもの」は何を指すのだろう。そして、その「今あるもの」を理解した時、私は「愛」という名の下で、この人生のすべてに対して無条件に感謝できるのだろうか。