この美しい霧の世界で
一寸先も見えない濃い霧が視界を覆う。一歩進むたび、腕に、足に、頭に激痛が走る。何より目の奥が焼けるように熱くて痛い。
軍の任務にて。突如錯乱した隊員の一人が私達の目の前で球状の何かを真上に投げつけたのが、テロリストのアジトである研究所への襲撃任務を開始して恐らく数時間後になる。それが弾けて世界が光に覆われ爆風と熱を受けて共に気を失ってから、一体どれほどの時間が経ったのか。目を覚ますと私の視界は赤い霧に覆われていた。
私の周りには今、声で溢れている。掠れた悲鳴、叫び声、呻き声、助けを求める声、殺してくれと懇願する声、声、声。そのどれもが恐ろしくおぞましい。何よりもそれらの声がふと消える瞬間、声の主の命が終わる瞬間が今何故か手に取るように分かる。くそ、今すぐにでも耳を引きちぎってやりたいくらいだ。
その湧き出る声の中でただ一つ、私の名を呼ぶ声が聞こえる。誰の声かは分からない。しかし、耳をつんざくような恐ろしい声ではなく、柔らかく、優しい声。
『伊代、おいで。こっちへおいで』
その声に励まされるように、途中見つけたかろうじて息のある一人を背負い、もう一人の足か腕かを掴んで引きずる。誰かは確認していない。そんな余裕はない。敬愛する隊長や友人の内の誰かであれば良いと願う。
『伊代、おいで。もう少し。頑張って』
痛む身体を引きずり、優しげな声だけを頼りに少しずつ前へと進む。相変わらず全身は熱くて痛むし、特に瞳は眼球が溶けそうなほどの熱と激痛に襲われていたが、今目を閉じれば二度と開けないような気がして、意地でも瞼をこじ開け続けた。
やがて、前方の視界の濃霧に光が差すのが分かった。研究所の出口にたどり着いたのだろうか。分からない。しかし、もう、限界だった。光に倒れ込むようにして意識を失う。
再び暗闇に飲まれる瞬間、どこか楽しそうな弾んだ声が聞こえた。その声は優しい母に似ている、気がした。
『大変よくできました!』
***
急激に意識が浮上する。慌てて身体を起こす。息が苦しい。ドクドクと心臓がうるさい。額と背中は汗でびっしょりだ。
さっきまで鬱陶しいほど全身を突き刺した焼けるような痛みはすでにない。シーツと毛布のぬくもりを感じ、ここが自分の寝室のベッドの上であることを再認識する。
夢……。
あの日の夢を見たのは久々だった。最後に見たのは沙耶が生まれる前だったか。いや、盲目の私に夢を見たというのはおかしな表現かもしれないが。
ふと、隣に意識をやる。霧のようにぼやけた視界から旦那の──信二さんの「ぴゅー」だか「すぴょー」だかえらく気の抜けた寝息が聞こえてきた。そこで私は小さな笑いと共にようやく肩の力を抜くことができた。
あの日以来、私の世界は深い霧に覆われている。
***
今日は夫婦揃っての休日、そして子供達は全員外出していた。家主である覆面野郎……もとい、父親も姿を消しているらしい。よくあることだ。
こういった日は必ずと言って良いほど信二さんは二人でどこかに出かけようと提案する。
「今日ね、サーカス団が街に来ていて広場でちょっとしたイベントをやるそうだよ」
「ふうん」
「あと、駅の側にある喫茶店のチラシも入ってたんだ。新メニューができたって書いてあるよ。今日一緒に行ってみないかい?」
ほらきた。
予想が当たったことにほくそ笑み、コーヒーを飲みつつ私はお好きにどうぞ、と彼に答えた。おそらく信二さんも私が承諾することなど予測済だったのだろう。いつもの嬉しそうな声が返ってきて、私はまた笑みを浮かべた。
朝食を食べ終え、片付けようと手にした皿やマグを執事のサンジェルマンに取られ、拭き物をしようとしたらメイドの能登に先を越された。私は家主じゃないんだから、と言ってもいつも彼らは聞く耳を持たない。
渋々手ぶらのまま屋敷に用意された私の自室に戻り旦那が用意した服を手に取る。
結婚して以来、服は毎日信二さんが用意してくれている。目が見えない私にとって柄とか色の違いなど分かるはずもなく、私自身は裸でなければ何でも良いと思っている。まあ見えなくなる前から服装に頓着はなかったが。
手探りで着替える。触ったことのない感触から新品なのだろうなと予想する。また買ったのか、物好きだな。……って、またスカートか。ある程度予感はしていたが、何故この人は二人で出かける時必ずスカートを選ぶのか。
色々思いつつ、着替えを終えてリビングに戻る。霧の先から信二さんの気配がした。
「伊代ちゃん、よく似合ってるよ! それね、この間新しく買ったんだ」
「……そう」
熱くなる頬を隠すように顔を逸らす。この人の言葉はいつだって直球すぎる。
恥ずかしさから逃れるようにさっさと出かけようと玄関へ向かう私をどういう訳か信二さんが制した。
「伊代ちゃん、ちょっと待って」
そのまま手を引かれ、信二さんに連れられ玄関から離れる。方向からして……洗面台か?
「髪の毛ボサボサだよ。女の子なんだから綺麗にしなきゃ」
「女の子って歳でもないだろ」
「僕にとってはいつまでも可愛い女の子です」
きっぱりと言い切り、ゴムで適当に縛っていた私の髪を無断で解いてブラシで梳かし始める。その言葉と優しく、慣れた手つきに文句を言う気もなくし、されるがまま彼に従った。
しばらく髪を梳かされ、スプレーか何かで整えられようやく開放された。幾分か頭がすっきりした気がするが、さっきのように一つくくりにされていないせいで、癖のある毛先が首元にちくちく当たってくすぐったい。
「髪、縛らないのか」
「下ろしてた方が可愛いよ」
「……鬱陶しいんだが」
「文句は受け付けません。じゃあ、行こうか」
玄関までせっつかされ、靴を履き、当然のように信二さんに手を取られる。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「留守を頼んだ」
「行ってらっしゃいませ」
「お気をつけて」
恐らく恭しく一礼をしているのだろうサンジェルマンと能登に声をかけ、信二さんと共に家を出た。
***
左手に白杖代わりの仕込み刀を持ち、右手は信二さんの手に握られ霧の中を歩く。この視界とも呼べない視界にも、もう随分と慣れてしまった。
二人で出かける時、信二さんは必ず私と手を繋ぐ。移動する時は何でも良いから話をする。それはどういう訳か昔からずっと変わらない。……しかし決して嫌ではない。
「伊代ちゃん、着いたよ」
信二さんに声をかけられ、広場に着いたのだと知る。噴水のものであろう水音と大勢の人の声が聞こえてきた。
声の中心にサーカス団とやらがいるのだろう。軽やかな音楽と、笑い声と、楽しそうな空間がそこに広がっていた。
「伊代ちゃん、ピエロがジャグリングしてるよ。ボーリングのピンなんて重そうなのによく投げられるなあ」
「今度は皿回しだ。おお、危ない危ない!」
「今度は火吹き芸だ! あれ口の中熱くないのかな」
「ワンちゃんとお猿さんが出てきたよ。中良さそうに芸をしてる。ジローにも教えたらできるかなあ」
信二さんの歓声を実況代わりにサーカス団の芸を楽しむ。この目で見ることは叶わなくとも、何かを楽しむことができる。彼と色々出かけるようになってから知ったことだ。
しばらくしてサーカス団は自身の公演日と場所が記されているチラシを観客に配り、歓声と拍手に包まれ去っていった。
「いやーすごかったねぇ。伊代ちゃんはどう? 退屈しなかった?」
「あんたの声で大体把握できた。楽しかったよ。あとジローにサーカスの芸は出来ないと思うぞ」
「あ、やっぱり駄目?」
他愛もない会話を交わしながら広場を離れる。彼に現在時間を訊くと、昼の十一時過ぎだよ、と返ってきた。
「少し早いけど、お昼ご飯にしようか。朝言った喫茶店でもいい?」
「ああ」
その足で駅前の喫茶店に向かうべく広場の近くにある駅を目指す。手は相変わらず繋いだままで。
改札を通り、電車に乗る。休日だからか車内はそこそこ混んでいた。
そこでも信二さんと話し込んでいたがふと、斜め前から微かに声がして、顔を向ける。
「それでね、こないだ仁君と会った時に……」
「……信二さん、悪い」
「え、伊代ちゃん?」
立ち上がり、人混みを掻き分け斜め前へズカズカと歩み寄る。小さい、しかし私にははっきりと聞こえる女性の「助けて」と呼ぶ声へと。
そうして女性を壁際に追いやるように立つ、多分男のものであろう太い腕をきつく掴んだ。
「な、何だよ!」
「失礼。彼女の助けを求める声が聞こえたもので。……テメェ、何してやがる」
瞬間、男の右手が動く気配を感じ、刀で受け止める。案の定男の拳によるパンチだった。だが、
「弱い」
拳を掴みそのまま男を投げ飛ばす。かなりの大柄だったが、どうということはない。
「は、離せ! テメェ、俺にこんなことしてただで済むと」
「知るか!」
なおもギャーギャーと暴れ続ける男の腹に蹴りを食らわせ静める。ザワザワと人だかりが集まるのを感じ、思わず溜息を吐いた。
電車を降り、痴漢野郎を警察に引き渡し、被害を受けた女性──後で知ったが、私の勤務先に通う女子高生だった──に何度も礼を述べられ、目的地に向かう。やれやれ、無駄な運動をしてしまった。
「伊代ちゃん、すっごく格好良かったよ」
「やめてくれ嬉しくない」
「それにしても……困った人だったねぇ」
「ああ、全くだ」
聞くと、痴漢魔は異界警察のお偉いさんの息子らしい。どうりで偉そうなクチ叩けた訳だ。……後で怜士にチクろう。仕事になると人一倍容赦のない異界警察支部署長の兄を思い浮かべながら、いつの間にか到着した喫茶店の扉をくぐった。
席に座り、信二さんにメニューを見てもらって昼食の注文を決める。私はオムライス、彼はミートソーススパゲティ。手を合わせてからスプーンで掬い、卵とライスを口に運んで咀嚼する。卵とケチャップの味が口いっぱいに広がる。
「うまい」
「美味しいね」
「仁もオムライスをよく作ってくれるんだ。卵がふわふわですごく美味しい」
「仁君は料理上手だからねぇ」
「今度も作ってもらおう」
「そうだね」
時々作ってくれる弟の料理を思い浮かべ、短い会話を済ませて私も彼もほぼ無言で昼食を完食する。次いでデザートにと注文してやってきたのは、この時期限定の新メニューだという栗のパフェだった。スプーンで大きさと形を確認する。……意外と大きくて頬が緩む。
「信二さんはデザート何頼んだんだ?」
「ケーキセット。伊代ちゃん、それ全部食べられる?」
「余裕」
言いながらパフェに手を付ける。栗独特の甘さが口いっぱいに広がり、スプーンをつける手がどんどん進む。あっという間にスプーンが容器の底に当たり、中身がなくなったことが分かった。
「……もうおしまいか」
「伊代ちゃん早いねぇ。おかわり注文する?」
「する」
きっぱりと答え、今度は自分で店員に注文し、やってきた栗パフェを口に運ぶ。栗と生クリームの甘さが心地よくて夢中で食べていると不意に信二さんに名前を呼ばれた。
「何だ、」
返事をしようとして頬に柔らかい感触と彼の吐息が当たり、思わず身を固めた。
「クリーム、ついてたよ」
「ばっ、なっ、ひ、人前で何するんだ馬鹿者……!」
唇で触れられた頬を抑えて俯く。当の本人は悪びれることもなくははは、と笑い声を上げている。
こ、この男は……!
顔に集まる熱を誤魔化すようにパフェに食らいつく。冷たいアイスを口に入れているのに頬の熱は一向に引かなかった。
デザートを食べ終えて信二さんがレジで会計を済ませる。……自分の分は払うって言ったのだが。
「いいの。奥さんは大人しく奢られてください」
「むぅ……」
普段優柔不断で何でも人に譲るくせにこういう所は意地でも譲らない。やや不満に思いながらも支払いを任せ、信二さんと一緒に喫茶店を出る。すると、前方から聞き慣れた声。
「ん、沙耶か?」
「ほんとだ。一緒にいるのは友達かな?」
偶然にも娘の沙耶を見かけた。沙耶はこちらに気づいてないようで、沙耶と、彼女と話しながら歩いているのであろう誰かとの楽しそうな声が通り過ぎ、離れていく。相手の声がどう考えても男のものであったことは……まあこの際いいだろう。
沙耶の小さな、でもとても軽やかな声が耳に残っただった。
「内気な沙耶にも一緒に遊ぶ男友達がいたとはねぇ」
「ああ。この前まで小さな子供だと思っていたのだが……月日が流れるのは早いな」
「そうだね」
帰り道、心身共に成長した娘を思う。誘拐事件以来、消極的で人付き合いが苦手になってしまったあの子にも、大切な誰かができたのだ。良いことだ。とても。
ふと、何故だか今朝見た夢を思い出した。血のように赤い霧の中、一人藻掻きながら、足掻きながら、死にゆく仲間の声を置いてひたすら光に向かって歩く、かつて私が軍人だった頃に経験した地獄を。
次に隣の信二さんに顔を向ける。視界は赤くはないがやはり大して変わらない濃霧で、彼の姿を見ることはもはや叶わない。けれど手の包み込むぬくもりがいつも彼がそこにいることを教えてくれる。
信二さんと結ばれて、沙耶が生まれて、大悟が、そして奈緒が生まれて。一体どれほどの年月が過ぎただろうか。それでも彼は変わらず隣に立って、二人で出かける時は必ず手を繋いでくれて、盲目の私が一人で迷わないよう語りかけてくれる。
そのことがどれほど私を安心させているか多分この人は知らない。……普段は照れ臭いからわざわざ言ったりしない。けど、
「信二さん」
「何だい? 伊代ちゃん」
「……ありがとう」
「えっ?」
娘にも大切な誰かが出来たのだと知って、今日は、今日こそは何だか言いたくなった。
「その……いつも、ありがとう。側にいてくれて。私を一人にしないでくれ、てっ!」
しかし、途中で信二さんに抱き寄せられ、言葉を中断させられる。普段からは想像もつかないほど力強く抱き締められ、胸に抱え込まれた。
「ちょ、おまっ、急に」
「大丈夫。周りに人はいないから」
「そういう問題じゃ」
「あー僕の奥さんは本当に可愛いなあ」
「かっ、なっ!?」
「……一人にしないよ。約束だからね」
「…………」
「こちらこそ、僕と一緒になってくれてありがとう。これからもよろしくね」
「…………うん」
耳元に落ちた暖かい言葉に、低く優しい声に、私は藻掻くのを諦める。今日ぐらいはいいか、なんて思いながら。
ドクドクと流れる心臓の音を聞き、このぬくもりがこの先も無くならないよう願ってそっと肩の力を抜いて彼に身を預けた。