貴方だけを見つめる

 軍の任務先で化学兵器による攻撃を食らい、視力を失って半年。リハビリを終えようやく退院してから数日後のことだった。宿屋を訪ねてきた須藤信二から一緒に出かけようと誘われた。

 目が見えていた頃、手紙や電話、軍の基地での面会などで交流することは度々あったが、こうして二人でどこかに出かける、いわゆる″デート″というやつは初めてだった。

 何故今日なんだと尋ねる。軍を除隊して以降、私は基本暇だったからだ。

 すると須藤は驚いた後『今日は貴女の誕生日だから』と何故か私より嬉しそうに答えて、祝う。彼の言葉でそんな日があったことを思い出した。七月六日。私の誕生日。こうして面と向かって祝われるのはいつ以来だろうか。

 そんな訳で自分でも忘れていた二十二回目の誕生日を、私は須藤信二と過ごすことになった。

 服屋に向かうなり須藤は服やら鞄やら髪飾りやらを見繕い″誕生日プレゼント″と称してそのまま私にくれた。こっ恥ずかしいほど直球な褒め言葉と今日はそれを来てほしいと言う彼の朗らかな懇願に、気恥ずかしさと申し訳なさから断ろうとした言葉を飲み込んで、素直にそれらを受け取った。

 それから始まった須藤とのデートは私にとって何もかも初めてのことだった。

 高校の制服以来初めてスカートを履いて街を歩いた。生まれて初めて軍の食堂以外の飲食店に行き、久々に誰かと一緒に食事を取った。生まれて初めてショッピングモールという場所に行き、見えない目で、それでもいろんなものを見て回った。

 これまで軍の仕事以外の何かをほとんど一切やってこなかった私にとって、そのどれもが新鮮で楽しくて。軍人でも使い捨ての″狗″でもない、まるで本当にただの女に戻ったみたいだった。

 そうして日が暮れてから須藤に連れられて訪れた街の海岸。野外訓練以外で海に来るのは初めてだ。海開きはとうに始まっているはずなのに今は人の気配がまるでない。私と彼以外は。

 夕暮れ時の淡い日差しを感じ、塩の香りが鼻をくすぐる。この時期特有の照りつける日差しも生ぬるいだけの風も今はどこにもなく、緩やかな潮風がどこか心地良い。

 風と共にざわざわと草木の揺れる音がする。そういえばこの時期この海岸にはたくさんのひまわりが咲いていたなと思い出す。記憶が正しければ昔から海岸の砂浜から少し離れた所に誰が植えたのか小さなひまわり畑があった。それらは照りつける太陽にやられることも潮風に萎れることもなく、毎年夏には大輪の花を咲かせているという。

 ひまわり畑を通り過ぎ、不慣れな砂浜を須藤に支えられ手を引かれて歩く。聴覚が敏感になって以降声が四方八方から響く人混みの中でも、彼はこうして私が迷わないように手を繋いで足並みを合わせてくれた。暖かくて少しかさついていて、意外と大きな手。いつの間にかこの手すら好ましく思っている自分に気づき、顔が熱くなる。

 海辺のほんのすぐ側まで来たのだろう。波の音がすぐ近くから聞こえてきた。

「良い天気だな」
「そうだね。伊代さんは海に来たことはある?」
「軍の訓練で何度か。夕方の海は初めてだ」
「そっか」
「……今どんな景色が見えているんだ?」
「ちょうど夕日が沈んでて、海とひまわり畑がオレンジ色に染まってるよ。すごく綺麗だ」
「そうか」
「…………」
「…………」

 沈黙。車の中では楽しそうにあれこれ話をしていたのに、海に来てからというものお互いどこか歯切れが悪い。まるで相手も何かを気にしているような……。

「……話がある」

 意を決して沈黙を破った。緊張からか情けないことに声が震えているのが分かる。

 何? と優しく尋ねてくる彼に向き合い、私は何とか言葉を紡ぐ。

「須藤信二、さん」
「はっ、はい」
「私は、貴方が…………好き、です」

 須藤が息を飲んだのが見えなくても分かる。私の顔がとんでもなく赤いことも。

 これまで彼にありったけの想いを告白された。私も彼への想いを鈍足ながら自覚してた。それでも私から何一つ告げることはなかった。軍の狗として、いやそれ以上に穢れてしまった私にはその価値がないと思っていたから。それでも諦めきれなくて、ただ一つ、遺書として書いた手紙に彼への想いを綴った。

 だけど何のいたずらか、彼は遺書を読んで私の想いを知り、私は生き残って彼の想いを改めて知らされた。だからもう、私は諦めることを止めた。彼から貰うだけではなく、私からも何かを与えたいと思った。

「あの時……貴方に一人にしないって言ってくれた事も、私が帰る理由をくれた事も、今日私の誕生日を祝ってくれたこともすごく、嬉しかった……。今までもこれからも、ずっと一人で生きてくもんだと思っていたから」
「…………」
「自覚するのも言葉にするのも何もかも遅いが、……貴方が好きで……っ!」

 突然引き寄せられ温もりにすっぽりと包まれた。耳までカッと熱くなる。

「ちょっ、須藤!?」
「伊代さんは、ずるいなあ」
「何を……おい、須藤泣いて」
「すごく嬉しい。やっと言ってもらえた」
「う……ごめん、遅くて」
「いいんだ。お誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう。……愛してるよ、伊代」
「……!」

 耳元で囁かれる、少し掠れた低い声。その言葉に、声に、頭が熱を帯びてクラクラする。ふらつく足を何とか踏み留めて泣き虫な彼の少し早い鼓動を聞いた。

「僕からも話があるんだ」

 しばらくして、身体を解放した須藤が言葉を発した。いつになく真剣な声色に私は思わず姿勢を正す。須藤の気配がやけに間近にあることが気になった。

 須藤はそのまま私の頬に触れ、その手に私は引き寄せられた。次の瞬間唇に触れる柔らかな温もり。彼の吐息。突然の出来事に指一本動かせないどころか声すら出ない。

 でも、不思議とその温もりは心地良かった。

 長いようで短い間の後、それが離れてようやく彼が口づけたのだと理解した。落ち着いていくらか冷めたはずの顔に再びみるみる熱が篭っていく。心音もうるさい。

「僕と結婚してください」

 そして告げられた言葉と共に今度は左手に暖かい感触。彼が今度は手の甲に口付けたことを知った。

 それは半年前、須藤が初めて見舞いに来てくれた時にも貰った言葉で、とっくに了承した言葉でもあった。なのに何故この人はもう一度懇願するのだろう。

 ようやく何で、とだけ口にできた私に、須藤が目の前で気まずそうに恥ずかしそうにはにかんだのが、視力がなくとも分かった。

「あの時は何の準備もなく勢いで言ってしまったから。改めて君の誕生日にちゃんと告げたかったんだ」
「…………」
「結婚しよう、伊代さん。僕と一緒に生きてください」
「……その言い方、ずるい」
「うん、ごめんね。それで……返事は?」

 彼が私の顔を覗き込んでくるのが何となく分かる。恐らく私の返事などとうにお見通しなのだろう。……ずるい人。

 込み上げてくる涙と羞恥を何とか堪えて、それでも私は答えを返す。彼が言葉をくれたように。

「私も……貴方と、一緒にいたい……」

 私の返事と共に彼は良かった、と安堵の声を漏らして再び私を抱き締めた。今度は私も素直に身を預けた。お互い、心音はさらに早くなっていた。

 次いで私の左手を手に取った須藤は私の薬指に何かを収めた。指に触れる冷たい感触。小さな石のようなものがはまったそれが指輪と分かるまでそれほど時間はかからなかった。

 とうとう耐えきれなくなり私からもポロポロと涙が溢れる。この人はどうしてこんなにも私に与えてくれるのだろう。

「幸せになろうね」
「……はい」

 涙ながらに答える私に彼は嬉しそうに笑って、再び優しいキスをくれた。

 遠くから耳に入る穏やかな波の音と風に揺れるひまわり畑のざわめきと、すぐ側から響く私と彼の心音を聞きながら、与えられる温もりの中で私はこれ以上ないほどの幸福を全身で感じていた。

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