一歩
「好きです」
告げられた言葉にクソ親父から受けた頬の傷の痛みも忘れて唖然と目の前の男を見下ろす。今コイツは何と言った?
「お前、今何て」
「貴方のことが好きです、佐久間伊代さん」
「……頭沸いてんのか?」
びくりと男の肩が震えた。その態度に苛立ちながら私は続ける。
「私はお前のものになるつもりはない。見合いを受けるつもりも、だ」
中学三年の春。母に連れられ、クソ親父に騙されて出席させられた見合い。そこで真相を知った私は大暴れをし、結果見合いは破談。クソ親父を思い切り殴れたのは良かったが、私も散々殴られ蹴られた。私の婚約相手と紹介された目の前の男――須藤信二も一部始終を見ていたはずだ。
だと言うのにこの婚約相手、いや元婚約相手は私のことを好きなのだと言う。自身の顔も体も、見合い会場も着せられた振り袖もボロボロにした私に。意味が分からん。だから私はキッパリと言ってやった。
なのに、
「存じています。今の僕が貴方とどうこうなるつもりは、ありません」
須藤信二は震える体で、それでも顔を上げ真っ直ぐ私の目を見て言葉を紡ぐ。
「じゃあ何で」
「一目惚れです」
「……はあ?」
ますます意味分からん。しかし須藤は視線を逸らすことなく続ける。
「初めて貴方を見た時、綺麗な人だと思いました。でもそれだけじゃなかった」
「…………」
「貴方はとても強い意志をお持ちだ。僕にはない、嫌なものは嫌だと言う勇気がある。抵抗する行動力がある。そこに、僕は惹かれました」
そんなことを言われたのは初めてだった。今まで乱暴だの女らしくないだの散々悪口を言われたことはあったが。
そこまで考えて、ふと自分の頬が熱くなるのを感じ、慌てて顔を逸らす。
「……そう。で、結局お前どうしたいんだ。言っとくけど私は」
「僕と友達になってください」
「はい?」
三度目の聞き返し。こいつには驚かされてばかりだ。
「今の僕は貴方とどうこうなるつもりはありません。婚約も破棄していただいて結構です」
「じゃあ何で」
「それでも、僕は貴方への思いを諦めるつもりはありません。それに貴方のことをもっと知りたい」
「…………諦めろよ」
「嫌、です」
ようやく浮かべた笑顔で、それでも須藤信二は言い切った。笑みは浮かべているが目は本気だ。説得も言い逃れも、無理そうだ。
「……まあ、それぐらいなら」
我ながら呆れるほど小さな声で答える。友達なんて言うが住む場所も遠いし、そもそも私はコイツの事を何も知らない。大した繋がりでもないだろうと高を括って。
「ほ、本当ですか!ありがとうございます!」
「ち、ちょっ、お前……!」
先程まで真面目な面をしていた須藤が満面の笑みを浮かべ私の両手を握りしめる。突然のことに思わず固まった。
慌てて手を振りほどいても、何がそんなに嬉しいのやらニコニコと笑みを絶やさない須藤信二。
お互い連絡先を半ば投げやりに交換し、須藤信二は上機嫌で手を振って去っていった。
手を握られただけだ。気弱な男の笑顔を見ただけ。なのに、頬が熱くてしかたがなかった。心臓の音がうるさい。
「ああ、くそっ」
独りごち、それらを振り払うように無理矢理その場を立ち去った。
これが彼、須藤信二との――未来の夫となる彼とのはじめの一歩だとも気づかずに。