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【90年代小説】 シトラスの暗号 #12
Ⅴ.a piece of memory
夜も遅いというのに、新宿界隈は人と車が一向に減らない。むしろ増えてきている気さえする。
居酒屋の前でたむろっている学生の集団が居た。何人かは道端に座り込んで、正体をなくしている。
ああいうのを見てしまうと、大学生なんてバカの集まりなんじゃないかと思えてくる。彼らって、日本で1番暇な人種って感じだもの。
この人も、学生時代はあんなだったのかしら。
織田先生は、今日はボタンダウンを着ていた。パープル系のチェック。胸のマークでポール・スチュアートだとわかる。
佐智子が見たら、また目をウルウルさせて「ステキ」なんてため息つきそう。
信号待ちで止まっている間に、先生はカーステレオをCDに切り替えた。DJのおしゃべりが消えて、聞き覚えのある男性ボーカルの曲が流れてきた。
「これ、ポール・マッカートニー?」
「そう。『ノー・モア・ロンリー・ナイツ』」
「女の子口説く時の曲って感じ」
「口説きましょうか?」
「結構です」
「またラブホ行くとか言い出したら困るしねー」
何よ、その言い方。まるでわたしが口説いてるみたいじゃない。
車はタクシー渋滞の明治通りを通って中央線の線路をくぐると、左に折れた。前方に〈首都高速外苑入口〉と書かれた緑色の看板。片手でサンバイザーの裏を探って、黙ったままわたしにハイウェイカードを渡した。
料金所で窓を開けると、排ガスの臭いの生ぬるい空気が入り込んできた。
「うわっ、ハマったな」
電光ボードに表示された渋滞を示す赤いランプを見て、先生がつぶやいた。
思い切りアクセルを踏んだのも束の間。三宅坂の合流に差しかかった途端、案内板に出ていた通りのすごい渋滞につかまった。彼は慌てる様子もなく、ハザードを点灯させてからブレーキをかける。
それにしても、まさかBMW だとは思わなかった。せいぜいスープラかGT−Rだと思っていたのに。
「もしかして、先生のおうちって、すっごい大金持ちだとか」
「なんで? うちは板金屋だけど?」
「だって、ビーエム乗ってる。これ、高いでしょ?」
「そうねえ、高いんじゃない?」
「高いんじゃない? って、自分で買ったんじゃないの?」
「これはね、就職祝いにもらったんです」
「お祝い? ゴージャス! ご両親に?」
「バイト先のお客さん。どこぞの会社の社長だよ」
「どこぞの会社って。そこに就職したの?」
「いいや? 来てくれって言われたけど断った。俺が就職したのはT女子学園」
「それでお祝いにビーエム?」
「そ!」
「何者よ、その社長」
「ただの金持ちなんじゃない? ま、俺の価値はプライスレスってことですよ」
理解を超えてる。社長さんはアラブの富豪かなんか?
霞が関トンネルを抜けると、灰色をしたビルの林が目の前に広がった。
テレビ朝日のビルの向こうに、一瞬だけ顔を出す東京タワー。高層ビルとフェンスの陰に隠れたかと思うと、次に現れた時には意外なほどの大きさで迫ってくる。それはまるで、意図された演出であるかのように。
ビロードの空を背景に、ライトアップされて浮かび上がるその姿は、真夏のクリスマスツリーみたいに見えた。
日本で1番大きなクリスマスツリー。
ステアリングを握るドライバーの横顔越しに見る風景は、懐かしくて、悲しくて、優しくて、切なくて、左の胸の奥がチリチリ痛んだ。
スピーカーからは、2度目の『ノー・モア・ロンリー・ナイツ』が流れていた。
「ちょっと寄り道するよ」
環状線内回りから11号線へ抜けて、レインボーブリッジを渡り、台場で降りた。
3月に移転してきたばかりのフジテレビの横を通り過ぎ、ゆりかもめの線路に沿ってテレコムセンター駅まで来ると、信号でUターン。
ホテル日航東京の向かいにある公園の駐車場に、車を入れた。
「ここからだと、東京タワーが結構きれいに見えるんだよ」
街灯や案内板のライトに照らされて、ほの明るい公園の中を、海に向かって歩いた。ウロウロしているのは、さすがにカップルばっかり。
植えられたばかりらしく、まだ背の低い並木を抜けるといきなり視界が広がって、対岸の港を見渡す広大なパノラマが現れた。
レインボーブリッジの奥に東京タワーがそびえ立つ、まるでトレンディドラマのワンシーンのような風景。
東京タワーがクリスマスツリーなら、その上にかかるレインボーブリッジは、雪を模した銀のモールのようだ。
ここは1度来たことがある。誰かと一緒に、1度だけ。
『日本で1番大きなクリスマスツリー、なんだか知ってる?』
『知らない。何?』
『東京タワー。ほら、見てごらん』
ギュッと絞られるような胸の痛みと共に、わたしは思い出してしまった。
いつ、誰と、ここへ来たのか。どうして、首都高から見る東京タワーが好きだったのか。
忘れたいのに忘れられない。忘れたくないのに忘れてしまう。
ガラスのケースに入れて、誰にも見つからないように、秘密の引出しのずっとずっと奥の方にしまっておいた思い出だった。
ガラスが割れて、ケガをするのが怖かったから。
去年のクリスマス、この夜景を見ながら、わたしは生まれて初めてキスをした。
そしてその夜のうちに、恋人同士に必要なことは全て知ってしまった。
だけど悲しいことに、ここから見る夜景はとても良く覚えているのに、たったひとつだけ、その人の顔がどうしても思い出せないのだった。
「どう? 気に入った?」
先生がシャツの胸ポケットから、タバコを出して火をつけた。
この人、タバコなんか吸うんだっけ。初めて見たような気がする。
「ここ、1度来たことある」
「なんだ、来たことあるの? そっかー。ありがちなデートスポットだしなあ」
海から吹いてくる風は、強くて冷たかった。半袖のワンピースから出た腕が、少し肌寒い。
タバコの煙は、吐き出されるとすぐに、夜の中に消えていった。
「やっぱり、そこらのカップルみたいにデートで来たんでしょ? 夜景にうっとりして、キスなんかしちゃったりしてさ」
「当たり。キスして、それから、その次も、その次もね。でも、彼氏とかっていうんじゃなかったと思う」
どうしてこんな話してるんだろう。誰にも言ったことなかったのに。
携帯電話の着信音が鳴って、すぐ近くに居たカップルの女性の方が話し出した。こっちにまで声が聞こえてくる。
「うんうん、そうなのよお。もう超キレイ。びっくりしちゃったあ」
そんなに大きな声で話さなくてもいいと思うのに。
「どうして、彼氏じゃなかったの?」
「うーん、ちゃんと付き合ってたって感じじゃなかったから。その後も何回か会ったけど、あんまり続かなかったの。電話、来なくなっちゃったし」
「サイテー。そういう男とやっちゃダメだよ」
さっきの女性は、まだ大声でしゃべっている。彼氏の方は黙って見ているだけだった。変なの。デートなのに。
「そうだね。でもわたしも、ただしてみたかっただけだと思うよ。別に誰でも良かったのかも」
これじゃ初世と同じだ。彼女を批判する資格なんてないかもしれない。
「『してみたかった』なんて理由でしちゃって良かったの? もっと自分を大切にしなきゃ」
体はじっとりと汗ばんでいるのに、むき出しになった腕だけが、風に吹かれて冷えていた。
短くなったタバコを、先生が海に投げた。落ちてゆく赤い光の放物線が、闇に吸い込まれてゆく。
「君はもっと、しっかりした考えを持った子かと思ったけど」
「しっかりしてる」なんて、もう聞き飽きた。1番言われたくない言葉だった。
「みんなと同じこと言うんだね。両親とか、友達とか、担任の先生とか、近所のおじさんおばさんとかと同じ。『清香ちゃんはしっかりしてるから大丈夫』って。もうそんなのやだ。そんなの嘘。期待するのはやめてほしいのに」
「自分を持て余してるって感じなのかな。でも、いくら手に負えないからって、投げ出したらダメだよ。そういうのを、自暴自棄って言うんだからね」
優しい声だった。お説教されているというのに、なぜだかうれしかった。だから、誰にも言えずにいたことも、全部言ってしまいたくなった。
「だって、みんな本当のわたしを見てくれないの。頭がいい。責任感がある。ひとりでできるから、ほっといても大丈夫。そんなことないのに。みんなが勝手にそう思ってるだけなのに。誰もわたしのことわかってくれないの。もう、そんなのいやなの。周りの人の期待通りに、お勉強のできる優等生でいるのは、もういやなの。みんな嫌い! 全部イヤ! でも、勉強ができなかったら、わたしはなんの価値もないの。本当のわたしは、なんの価値もないのよ」
「そうやって、自分で自分を傷付けるのはやめなさい。自分を否定してたって、なんの解決にもならないよ」
「わたし、もっと頭悪けりゃ良かったと思う。そうすれば、周りに期待されることなんかなかったのに。それにね、クラスの男子に嫌われてるの。男って、自分より頭のいい女は嫌いなのよね。だって、立場ないじゃない?」
「そういうもんかなあ」
「そういうもんみたいよ。わたしだって、バカな男なんか嫌い」
「俺はいいと思うけどね。気の強い女の子も、頭のいい女の子も」
この人より頭のいい女の子なんて、そうそう居ないんじゃないかしら。そんなんじゃ、ちっとも慰めになってないと思う。
「でもね、あの人は違ってたの。わたしがどんな学校行ってて、どんな成績取ってるかなんて知らないから、他の女の子と同じように扱ってくれたの」
「でも、それも本当の君じゃないでしょ? それじゃあ、君のアイデンティティがないじゃないか」
「だって、本当のわたしには価値がないの」
「価値がないなんて言うな。君は君のままでいいんだよ。価値があるとかないとか、人はそんなものでわけられない。苦しんでもがいて、それでも生きてる君の人生に価値がないわけないだろ? 外 野の声がうるさくて耐えられないと感じてるのは、君が迷ってるからだ。君が確固たる自信を持って進めば、そんなもの聞こえなくなる。結局みんな、君の幸せや成功を願って言ってることなんだから。単に君とは尺度が違うだけだよ」
「わたしの幸せ?」
「うん」
「大学に行くのが?」
「彼らがそう思ってるだけ。大学出れば職業選択の幅は広くなるけど、君にやりたいことがあるならそれをやればいいの。ただ、大学に行きたくないから専門学校っていう、引き算の選択は良くないと思う」
「うん⋯⋯」
「何を選ぶにしろ、君の人生は君のものだ。君は君で居ればいい。それ以上でもそれ以下でもない。1番大事なのは、自分で自分をごまかさないこと。自分に嘘をつかないこと。他人の価値観なんか気にするな。もっと肩の力を抜いて生きたらいいよ」
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