【90年代小説】 シトラスの暗号 #9
※この作品は1990年代を舞台にしています。作品中に登場する名称、商品、価格、流行、世相、クラス編成、カリキュラム、野球部の戦績などは当時のものです。ご了承ください。
※文中 †ナンバーをふったアイテムは文末に参考画像を付けました。
1話から
Ⅳ.彼女とわたしの事情
雨の日と月曜日は嫌い。なーんて、またしてもどこかで聞いたようなフレーズ。
月曜の朝はユウウツだとか、雨が降る日は気分が沈むとか。そんな、誰かが作った価値観に振り回されている自分が情けないとも思うけど、やっぱりダメね。
雨が降っていた。月曜日ではなかったけど、ユウウツのタネは他にもあった。期末テストが始まったのだ。今日はその3日目だった。
こんな日には、お気に入りの傘をさしてみても、色付きリップクリームをつけてみても、心は晴れない。
ウォークマンで珍しくB’zなんか聴いていたら、電柱に回し蹴り食らわしたいような気分になって、テープを止めた。
こういう時って、何をしてもダメなのよね。
占いによれば、今年後半はイライラし過ぎで、軽いノイローゼになりやすいという。当たってるかもしれない。わたしってデリケートだから。
雨に濡れて重たくなったスカートの裾と、湿気を帯びてはね放題の髪が、余計にわたしをブルーにさせた。
陰気に静まり返った教室には、濡れたウールと革の鞄の、生暖かいような、イヤーな臭いが漂っていた。まさに「超ベリーブルー」を絵に描いたような風景。
2限目は物理。そもそもこれが一番のユウウツの原因だった。
始業のチャイムが鳴って、テスト用紙が裏返しで配られる。
表に返すと、ワープロで打たれた相変わらず単調で無機質な文字が、お行儀良く並んでいた。
大きなフォントで〈物理1学期期末テスト〉。その右下に、少し小さく出題者の名前。中間テストと同じだった。
ワープロの文字を眺めていると、眉と眉の間辺りに織田修司の顔が浮かんできた。これもこの前と同じ。
ただ違っていたのは、彼はスーツではなく、ポロシャツを着ていた。教科書ではなく、ビールのグラスを持っていた。教壇ではなく、テーブルの向こうでわたしを見て笑っていた。
胸の奥がツクン、と痛む。
シャープペンシルを指先でクルクル回しながら、考えること約5分。
わたしは2Bの芯が入ったシャープで、螺旋を描くようにしてグリグリグリと出題者の名前を塗りつぶすと、問題に取りかかった。
初世から電話があったのは、試験休みに入った日の夜だった。
彼女は中学時代の友達で、正直お上品とは言えない都内の女子校に通っている。体型にあまり自信がないわたしと違って、すごく肉感的な子だ。
当時から派手な感じだったけど、女子校に入ったせいでそれが一層助長されてしまったみたい。共学よりも女子校の方が、遊んでる子多いらしいし。
電話の内容は、翌日新宿のライブハウスで行われる、ロックバンドのライブに行かないかというお誘いだった。聞いたことのないバンドだったけど、タダ券を持ってると言うし、特に予定もなかったので付き合うことにした。
久しぶりだからゆっくり話をしようと、その夜は彼女の家に泊めてもらう約束になっていた。
ところで、初世の男癖の悪さは相当なものだった。
中学卒業直後に、幼なじみのお兄さんに「犯され」て(彼女がそう言ったというだけで、真偽のほどは定かではない)以来、元クラスメイト、なんたら言う暴走族のヘッド、名門校に通うお坊ちゃま、その友人の生徒会長、ヤンキー癖が抜けないコック見習い、SM趣味のサラリーマン(妻有り)、社名入りのバンで昼間っからラブホテルに乗り付ける営業マン(妻子有り)などなど。
一体どこで見つけてくるんだか、本人や周りからの話で聞いただけでも数え上げたらきりがない。ほとんど手当り次第だ。どうかしてると思わない?
それも彼女の場合、次々に男を変えるという類のものじゃなく、アレもコレもソレもと、いろんな料理をお皿に集めて少しずつ味わいたいというタイプだったので、ますます厄介だった。バイキングじゃないっつーの。
彼氏のアパートに転がり込んでおきながら、他の男ともダラダラ関係してしまう。2股どころか、3股4股の狼藉がバレて、修羅場を見たのも1度や2度ではないらしい。けれど、その悪癖を改めようという気はないようだ。
彼女の言い分はこうだ。
新しい男を作ってしまうのは、優しかったから。それでも前の男と別れないのは、淋しいから。
父親と早くに死別しているという生い立ちが影響してるのかもしれないけど、たとえそういう背景があったにしても、ちょっとついていけない感じだった。
それでも、はたから見ている分には実害はなくて、「飽きもせず、よくやるわよね」くらいの気持ちだった。
まさかその火の粉がわたしにまで降りかかってくるとは。油断大敵ってやつよ。
夕方6時から始まったライブは、メジャーデビュー後初という割には盛り上がっていた。
近頃ありがちなビジュアル系バンドで、お客さんのほとんどは「無料招待だからなんとなく」って感じに見えたけど、インディーズ時代からのファンが付いているようだ。客席の前方何列かは、似たようなメイクとファッションに身を包んだ「それ系」のお姉さん方で占められていた。
ああいう人たちって、普段どんな仕事をしてるんだろう。入口でアンケート配ってみたくなる。
ライブが終わって会場を出ると、初世が「何か食べて帰ろう」と言うので、靖国通りをふたり並んでてくてく歩いた。
初世のファッションは、彼女の男性遍歴に似て、いつもながら激しいと言うかなんと言うか。
ブラの線丸わかりで、乳首まで浮き出てしまうんじゃないかと思うほどピタッと体に張り付いたヒカリモノのシャツに、これまたショーツの線が心配なタイトミニ、厚底ブーツというものだった。第2ボタンまで開けた胸の谷間には、チェーンがY型のネックレスを「ココに注目!」てな感じで、矢印みたいにぶら下げている。
「人を外見で判断してはいけません」と言うけれど、彼女の場合は十分な判断材料になるんじゃないか。友達ながら頭が痛い。
性格自体は決して悪い子じゃないんだけどな。
わたしはと言うと、小さいリボンとフリルが付いたベージュのプリントワンピース。初世とは正反対のロマンチック系だ。髪はワイヤー入りのリボンを使って、涼しげにシニョンにまとめてみた。
ドレスに合わせて選んだサンゴ色の口紅が、顔から浮いてるような気がして、ショーウインドーの前を通るたびに、ガラスに映った自分を覗き見てしまう。
化粧をするのは苦手。
アレルギー体質のせいだと思うけど、ファンデーションを肌に乗せると、どんなに薄く伸ばしても痒くなってしまう。安物を使っているわけでもないのに。
だからこの日も、ファンデーションは使わずに、ルーセントのパウダーだけで済ませていた。手抜きなんかじゃないんだから。
なのに、初世は会うたびに「そんなんだから、清香はいつまで経っても男ができないのよ」と繰り返す。
大きなお世話よ。高校生のうちから化粧も男もバッチグーっていうのも、どうかと思うわ。