~あれから10年 あの日の記憶

明日で東日本大震災から10年になる。またしても問わず語りになるが備忘録的に当時を振り返りたいと思う。

あの日、私は都心の中学校にいた。期末試験の答案返却日ということで登校日だった。答案返却自体は午前中に終わるが、当時所属していた鉄道研究部のミーティングの為、午後も学校に残っていた。その日は春休みに行われる合宿についてが議題で、確か行程について話し合っていた時であった。揺れがきたのは。

初めはいつも通りの揺れだと思っていたが揺れは収まらず、どんどん大きくなっていく。1階の木工室と呼ばれる主に技術の実習で使われる教室にいた我々は校舎から中庭に飛び出した。暫くして揺れが収まると中庭から校庭に移動し、点呼が行われた。そこでも暫く待たされた後、2階あたりの教室に移動し、再び点呼が行われた。そこで電車が止まっていることを知らされたものの詳細な情報がなかなか入ってこない事を覚えている。

日が暮れる頃になって防災セットの配布が行われ、クラッカーと乾パンを食べた。この頃、既に迎えがきている人や自転車の人はどんどん帰って行ったので学校に泊まる事を確信した。そして事実、そうなった。夜が更けた頃になって迎えが来て帰った人もいたが、自分の場合、最寄り駅を通る路線が止まっていたので泊まる事になった。公衆電話越しにやっと母親と連絡が取れたのも確か夜の9時頃だった。母親には泊まる事をとを伝えた。

日付が変わる頃、副担任だった先生が「お家の人と連絡取れたかね」と確認に回ってきた。それから校長がやってきて「明日の朝食として近くの弁当屋の弁当を注文した」と聞かされた。照明も消され、防災セットについていた銀色の寝袋を床に敷いたり机に突っ伏してみんな寝る体制になる訳だが、当然なかなか寝れる訳もない。寝言を言う先輩、屁をこく先輩、私も寝れずに同級生と話をしたり…。夜の校舎を探検したり乾パンを水に浸して食べたりまた眠くなってウトウトしてるうちに夜が明けた。

校長が手配した弁当を朝食に食べた。食べ終えると運転を再開した路線、まだ止まっている路線について放送があり、最寄り路線が動いている事が分かり、やっと家路についた。電車はノロノロ運転だったのととても混んでいた事を今でも覚えている。家に着いた時は既に昼前だった。

エレベーターが止まっていたので階段を使って上り、家に帰った。これまで震源地が東北ぐらいしか情報が知らされていなかった私は家のテレビや新聞で初めて被災地の惨状を知ることになった。少しクッキーを食べると寝不足だった私は炬燵で夕方まで昼寝をしてしまった。

それから数日後、修了式は放送のみになり、春合宿も中止。計画停電に見舞われるなどする中、都庁に被災地支援物資を持って行ったりして春休みは終わった。

その後、中学の「卒業研究」では被災地の鉄道をテーマに扱ったり高1の夏に初めて被災地を訪れたりと触れる機会はあるもののやはり歳月には抗えない。大事なのは忘却の彼方にしないことであろう。あの日を知っている人が生きている限りは。

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