~あれから10年 三陸行ったときのハナシ
※データは2013年当時のものです。
被災地へは2度しか足を運べてないと書いたが、そのうちの一つ、三陸行った時の思い出を綴りたいと思う。
その日は仙台泊だった。6時過ぎにホテルをチェックアウト後、仙台から小牛田、一ノ関で乗り継ぎながら昼前に盛岡に着いた。その日は盛岡泊だったのでコインロッカーに大きな荷物を預けてから山田線に乗って宮古を目指す。盛岡~宮古間は並行する国道106号を走るバスにシェアは奪われがちで本数は極端に少ない。2時間ほどかけて宮古まで出たらいよいよ本命の三陸鉄道北リアス線の乗車だ。
当時はまだ小本~田野畑間が復旧しておらず当該区間は岩手県北自動車の代行バスでの移動となる。30分ほど揺られた後、小本で降り、バスに乗り換える。バスの車窓から仮設住宅や整備中の土地が見えたことで被災地であることを実感した。
30分程で田野畑に着いたが、列車が来るまで1時間程あったので近くを散策する。歩いて程なくしたところに平井賀川の水門がある。これは水門の上部が三鉄の列車を模している為、かなり人目を引く見た目だ。その水門上部の壊れている部分を見て、例によって震災を実感した。
「カンパネルラ」の愛称のある田野畑駅に戻り、列車を待つ。その間、売店などで過ごしたが、陸前高田市の「奇跡の一本松」を伝える絵本があったので立ち読みしたのを覚えている。そして列車が来たので一路久慈を目指す。途中、堀内駅は連続テレビ小説「あまちゃん」の舞台ということもあり、長めの停車時間中に何人もの人が降りていた。
田野畑から1時間程揺られながら久慈に着く。ここで八戸線に乗り換える。久慈では乗り換え時間があまりなく、駅前を散策する間もなく駅舎や駅に隣接する三鉄の車庫を撮ったら八戸線の列車に乗る。今では新型の気動車キハE130に置き換えられているが、当時はまだキハ40がバリバリの現役だった。黄昏時の海岸を眺めながら八戸を目指す。
2時間ほど揺られながら八戸に着いた。この時にはすっかり日が暮れていた。
八戸は2002年に東北新幹線が延伸したときの終着駅だったものの2010年に新青森まで全通した際に中間駅になった際に在来線との連絡改札が塞がれてしまってたのが物悲しかった。青い森鉄道線・IGRいわて銀河鉄道線で2時間近くかけ、南下。盛岡に着いたのは21時頃だった。
震災から2年経ったがまだまだこれからだという事を高校生ながら身をもって感じた夏の日であった。
※ヘッダーは田野畑駅付近の海岸。
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