3ヶ月ぶりに舞台を観た話、あるいはチクチクしながらカクテルを飲んだ日(願いが叶うぐつぐつカクテル)
情報解禁が約1年前。ずっと楽しみにしていた舞台がいろいろな制限を必死にクリアして公演実施する運びとなった。やったー!
喜びと安堵、でもまだ予断はならないという不安定な気持ちを抱えながら、わたしはとにかく疲れていた。自粛疲れという言葉が妥当かどうかは微妙なところだが、コロナワザワイの中で飛び交う情報に振り回され、舞台やライブ、エンタメが出来ないことにいちいち胸を痛め、腹を立てて、感情が煩わしくなり、「いっそ出会わなければよかった」とJ-POP(概念)を熱唱したりしていた。あと単純に在宅勤務が板につき外出が面倒くさかった。本当に…ただひたすらに、面倒くさかった。舞台観劇という趣味、やめたいと思った。
なんてことない趣味のひとつでしかないのだからやめてしまえばそれまでなのに、チケットを取って、発券しにコンビニに行って、新しいお洋服を買って、美容院に行って、パックして、爪に色を塗って、2週間なるべく家から出ないようにして、できうる限りのモチベーションを上げ109日、3ヶ月17日ぶりの2020年7月9日、劇場に行ったのは意地とか執着とか依存とかそういうたぐいのものだと思う。
ニコチン濃度を維持するには断続的に吸い続けなければならず、吸えば吸うほど依存性は高くなり、やがて自分の意思とは関係なくニコチン支配による喫煙が繰り返される。吸わなければニコチンは抜けていくが禁煙の離脱症状に不安を感じたり、「ホッ」するような感覚を失ったりすることを、心配しているのではありませんか?あなたの心は、「タバコをやめよう!」と思う気持ちと、「やっぱりやめたくない!」という気持ちが綱引きをしている状態です。
ワクワクというよりなんとなくチクチクした気持ち劇場前に立っていた。
そんなわけで劇場についても残念ながら生の舞台を観たら泣いちゃうとかいうエモーショナルよりも感染症対策ちゃんとしてる!すごい!本当に真剣なところは誠実に向き合ってるので…と明後日の方向を見ていることしかできずにロビーを通過し、席に座った。心なしかチクチクする感じが増した気がしながら、セットがかわいいなあとか、関係者ぽいひとがいっぱいいい席座ってんなあとか、人が前と隣にいないのは寂しいけど正直快適だよなあとか思いながら開演のアナウンスを待った。
次第に照明が落ち、きらきらと紙吹雪が客席に落ちてきた。それは雪だった。雪が身にかかる(わたしの座席には届かなかったけど)、配信ではぜったいに味わえない光景を初っ端に食らわせてきた。物理は強いなと思って、ちょっと泣きそうになった。酷く、チョロいエモーショナルだ。
そこから、主演の北村さん扮する枢密魔法顧問官イルヴィッツァーのコミカルな言動に小さな笑い声が響いた。クスクスという客席から漏れでた小さな笑いは一気に伝播し、不安と緊張感が漂う劇場を一瞬で「大晦日の夜、枢密魔法顧問官イルヴィッツァーの実験室」にしてしまった。これが劇場の、生の舞台の強さだ。たった3ヶ月、されど3ヶ月、忘れていた訳では無いけれど体験に勝るものはないと思った。
とある役者さんが観劇とは「生まれも育ちも違う人間が同じ方向を向いていなきゃいけない大変な状況」と称していたのだけど、生まれも育ちも違う人間が同じ方向を向いていて笑っているという空間を肌で感じた。自然と背筋が伸び、姿勢を整えるとチクリとなにかが刺さった気がした。
〈あらすじ〉
大晦日の夜、枢密魔法顧問官のイルヴィッツァーの心はざわついていた。悪魔と契約したノルマを履行できていなかったからだ。大晦日が過ぎるまでに契約を果たせなければ、イルヴィッツァー自身が差し押さえになってしまう。
そこへ、魔女ティラニアは、なんでも願いがかなう魔法のカクテルを作るレシピが書かれた巻物を手に入れるために、イルヴィッツァーを訪問する。二人のやりとりを盗み聞きした猫のマウリツィオとカラスのヤコブは何とか彼らの野望を阻止しようとするのだが......。
知恵と知識を見ることが好きだ。制約が多い舞台演劇という手法の中でいかに知恵と知識を駆使して表現し、人に共有するかが勝負でもある。さらに新型ウイルスのことがあって、制限が増えた。しかも正解のわからない制限。
口元を覆うマスクひとつでも世界観に溶け込ませることと、現実で必要な対策のバランス。異化効果(さっきトークショーで知った言葉)をつかって馴染ませる手腕。指示棒で戦う肉球とアシユビもディスタンスを感じるし、野放しな日替わりや現代風刺のあそびや、演劇の古典手法も馴染みよくてやっぱり魔法みたいだったり。登場人物全員に上司がいて、魔法使いも魔女も悪いんだけど諸悪の根源みたいな悪人ではないところも現代の世界と通ずるところがあって、めちゃくちゃかわいい絵本ぽいセットはそういうペラペラの世界とか。
あとは、ずっとこれだけはやりたいと懇願していた贔屓の役者のうれしそうで楽しそうな姿。色々考えて考えて最良の形をギリギリまで(今でもきっと)探し続けているベテラン揃いの役者とスタッフさんたちを前に舞台上で外でも得られた安心感。
知恵と知識が詰め込まれた大好きな舞台!有難い〜
https://www.nntt.jac.go.jp/enjoy/record/detail/37_017668.html
(舞台写真・マスクかわいい)
偶然なのか、運命なのか、ミヒャエル・エンデのこの戯曲は主人公が悪魔との契約ノルマ『大気や川を汚染し疫病をはやらせることなど』を遂行しようとする。新型ウイルスや、九州の水害でニュースが賑わっていたこの日に'お誂え向き'の話。
きっとこれから新型ウイルスにまつわる負の諸々を絡めた物語が何百何千と生まれてくるだろうけど、未だ収束しない生活には30年前書かれた物語は直接的ではなく、それでもチクチクと刺さる台詞が心地よかった。
「まず結果、それから原因」(好きなセリフ)
帰りにロビーですれ違ったこどもの反応も、グダグダチクチク管巻いていたわたしも、たぶん役者や関係者と、それらの同業者も幕が上がってよかったなというシンプルな結果になったと思う。
「死ぬのなんていつだってできる」(好きなセリフ)
「もし夢中になれることがあったらおやり。なければお眠り」(一番好きなセリフ)
自粛中、めちゃくちゃ時間があった。というか、今もめちゃくち時間がある。新型ウイルスのワリをくっている職種なので経営ギリギリ、仕事はないのでお金もない。(サラリー貰ってるので今のところ全然大丈夫です…精神的にお金が無い…)時間があるから何かやらなきゃという正体の見えない焦燥感に駆られてチクチクと胸が痛む毎日だった。
ミヒャエル・エンデは環境破壊のためにはファンタジー(想像力)が大きな意味をもちいると考えていたらしい(プログラムより)。
環境破壊だけじゃない、すべての事象に対して必要なものは物語とファンタジー。わたしが夢中になれるのはそれしかなくて、もしなければ見つかるまで眠って夢でも見てればいいのかもしれない。
舞台を観た夜、久しぶりに地に足をつけて、息を吸ったような気がした。酸素を取り入れ冷静に、想像力を働かせれば、すぐにあのチクチクと刺していたものの正体に気づいた。そういえば、買ったばかりの新しいお洋服のタグ、切ってなかったな。
PS.トークショーを聴いたら、役者がいちばん不安だろうに似たようなことを仰っていて向こうもこっちもきっと思うところは同じなんだろうなと思った。
参考
http://square.umin.ac.jp/nosmoke/material/selfhelp.pdf
http://www.kameda.com/patient/topic/nonsmoking/15/index.html