ネオ組織政党という戦略と挑戦
先の参議院選挙の後、特定の宗教団体と政党との深いつながりが注目されている。カルト的な宗教団体が、政党の政策決定に少なからぬ影響を持つことの問題だという指摘は出ているが、この点に関して私自身はその是非についての性急な判断は避けたいところだ。政治、というよりは公共の場からの宗教性の排除を目指すライシテなどはフランスだけの話であり、宗教団体が支持母体になっている政党など日本に限らず世界的に見ても珍しい話ではない。その中には問題含みな主張をする団体が母体のケースもあるだろうが、ひとまずそれが有効な民主的プロセスで選出された以上その存在は否定されるべきではないだろう。(それを否定しては投票権者の成熟を前提にする民主政治の否定にもつながる)そうしたことを考えると宗教団体が、仮にカルトであっても、政党の支持母体になりその政策に影響を与えること自体をシンプルに問題するのは疑問だし、フランス的な立場を選ぶにしても慎重に検討すべきだろう。
だがそれとは別にして、このトピックは政党というものの歴史を見ていく上で決定的に重要であるように思われる。端的に言ってしまえばい、政党の形態の古いようで新しい形態の誕生の契機なのではないかと思われるのである。それこそが本論で提唱する「ネオ組織政党」である。今回の一件に真に問題があるとすればおそらくこの点なのだ。
政党と一口に語っても、それは数度の歴史的変遷を辿っており、昔の政党と今の政党とでは全く性質を殊にする。その変遷を「名望家政党」「組織政党」、「大衆政党」と政治学上では区分されている。(それぞれの呼び方は学者によって様々である。またこの流れに「ポピュリズム政党」が近年加わっていると言えなくもないが、それは本校の流れから少し外れた議論なので割愛する)本稿では歴史を辿ってそれぞれの政党形態の誕生までの流れとその終焉、利点とその課題を見ていき、その流れに「ネオ組織政党」を位置付けた上で、それがどうして問題なのかを論じたいと思う。
近代的な政党としての組織政党の起源
まずそもそも政党という団体の起源について語らねばならない。初めに政党が誕生したのはイギリスであった。イギリスでは13世紀にマグナ=カルタが調印され、議会制の基礎がつくられ、その後14世紀を通じて二院制議会として発展していった。そんな中でトーリー党やホイッグ党など議員間で政策についての考え方が近い人々が集まった緩やかな紐帯としての名望家政党が誕生した。名望家政党とはその名の通り、一定以上の土地所有者が有権者とされていた地主的な性格の強いものであった。そしてそれはあくまでも緩やかな紐帯であったため、審議内容によって議員が政党と関係なく賛成反対をすることができた。しかし選挙区が中世に決められた当時のままであり、産業革命で大発展したマンチェスターなどの都市にはごく少数の議席しか割り当てられていない一方、すでに人口減少をした地域に過剰に議席が割り当てられるなど近代化に伴って実態にそぐわない選挙制度になっていた。そこで選挙制度改革が行われ、選挙区が実態に沿ったものに変えられ、また選挙権も徐々に所得制限が緩められていった。
そんな中で「政党がいかにして選挙権者達を自分の政党に投票してもらえるように動員できるか」ということが問題になってきた。どういうことだろうか。それまでの選挙制度だと選挙権に厳しい所得制限が設けられていたため、投票するのは顔見知りレベルの人たちに限られていた。だからわざわざ大規模に組織を動員などせずとも立候補者は当選できるわけだが、(男子)普通選挙制になると、自分の知らない数多くの貧しき人たち相手にも自分に投票してもらう必要が出てくる。そのため緩やかな紐帯に過ぎなかった名望家政党を大規模な組織政党へとつくりかえる必要があったのだ。
ではここから組織政党についての説明に移ろう。どうやって見ず知らずの大多数の人々にアプローチすれば良いのだろうか。まず必要となるのはサブカルチャーを作ることである。一番わかりやすい例で言うと教会でのミサだ。敬虔なキリスト教徒は毎週日曜日に教会に集まってミサを行う。そしてその後にはそのままのメンバーで集まって飲み食いをしながら政治的な議論をし、それぞれの政党に合わせて人々を教化するとともに求められる政策をヒアリングするのだ。それはミサに限らず、例えば合唱団やハイキングクラブなどのレベルでも行われ、バラバラな人々を団体へと組織し、自分の政党の党員になってもらうのである。
さらにそうした党員からのヒアリングを通じて、政党としての統一的な政策を練り上げる。サブカルチャーを形成しても、党の候補者がバラバラな政策を掲げたり議会で行動をしていたら人々は候補者を支持してくれない。そのため統一的な政策を掲げ、その政策を打ち出す人を候補者として選出し、当選後も党の政策に従うよう党議拘束を強めるのだ。
このように、①サブカルチャーの形成、②党としての統一的な政策と強い党議拘束によって、トーリーは地主らの保守層を基盤とする保守党、ホイッグはブルジョワを基盤とする自由党という近代的な組織政党へと生まれ変わったのである。
組織政党の隘路
こうしたは組織政党はイギリスに限らず世界中で組織されるようになった。特にこうした組織政党の形勢に力を注いだのは労働者層を基盤とする政党である。選挙権が富裕層から少しずつ拡大されたという背景もあり、労働者は基本的には既存の政党へと包摂されることになってしまうが、それでは労働者固有の利益は代表されないことになってしまう。そのためドイツの社会民主党(SPD)をはじめとする労働者政党はサブカルチャーづくりを熱心に行い、労働者を強化することによって労働者固有の利益のために動く政党を上から組織していったのである。このように組織政党は内輪で強い団結を生んで発展していったのである。
こうした独自利益を求める組織政党が生まれ始めると、組織政党という形態は少し問題含みのものとなってくる。イギリスのように小選挙区制によって二大政党制が確立する国では第三党以下の政党はほとんど議会で議席を取れないため(デュベルジェの法則)、第一党か第二党のどちらかに包摂され、その内側から自分達の利益を実現するようにする他には道がない。しかし比例代表制をはじめとして別の選挙制度の国では第三党以下の政党でも一定の議席の確保がしやすい。そのため特定団体の利益を求める組織政党が乱立すると相対的に第一党や第二党の議会に占める議席数は減り、単独で過半数を取れなくなってしまうのだ。連立政権を組めばひとまず多数派を取ることはできるが、ここにも大きな問題がある。連立与党はどちらも完全に自分達の求める政策を実現することはできず一定程度妥協しなければならない。しかし組織政党は特定団体の利益のための政党なので、政策がガチガチに固定されているため他の政党との折り合いが難しいのだ。そのため政党同士の連立の取引は、支持母体に相談しつつ決める必要があり、とてもコストがかかってしまう上、成立可能性も決して高くないのだ。
この問題が顕在化したのはまさしく、戦間期のドイツであった。戦間期のドイツでは敗戦後の賠償金問題に始まり世界恐慌をへての社会不安が広がり、その抜本的な解決が政治に求められていた。そんな中で大勢の転覆を主張する、少なくともそう目される極端な反システム政党も誕生した(極右側にナチ党、極左側に共産党)。多数の政党が乱立し、さらに極端な反システム政党が存在するような状況は、まさしくサルトーリの分析した分極多党制そのものである。(なおサルトーリ自身は単純に政党数だけで分極多党制としていたが、その後の政治学の議論の中で理論が修正されていった)このような状況では政党があまりに分立し過ぎていたために比較的中道よりではあるものの政策間の距離が大きい=妥協可能性の低い政党が複数集まらないと政権が成り立たなかった。しかしかろうじて成り立たせたところで、組織政党では妥協ができないため実行的な政策を打ち出せず、また何度選挙をしても同じ政党が連立を組み続けているため何も変わらないという絶望感からより過激な反システム政党に投票してしまう。そしてさらに議席を失った中道政党はさらに政策間の距離の大きい政党と組まなければならず、さらに動けなくなり、さらに反システム政党に票が流れる。そして最終的にナチス政権が誕生してしまったのである。
組織政党についてまとめるとこう言うことになるだろう。組織政党は普通選挙下において、サブカルチャーを形成し、人々を教化することによって、選挙活動に協力してもらったり固定票として自党の議員に投票してもらったりできると言うメリットがある。また選挙権者としても自己の意見を直接党の政策に反映することができると言うことも重要な利点であろう。しかしながらその一方で、逆に党員や支持団体の意向に縛られて、各党の現実的で柔軟な政策決定ができなくなり、また他党との連立自体が難しくなる。このことは状況によってはナチス政権の誕生のような危険性を孕んでいるのである。
大衆政党への道
第二次世界大戦、ドイツではナチス政権やその背景を踏まえて、内輪にこり溜まって妥協を許さないような組織政党を変えようと言う動きが起きた。たとえば組織政党の代表格であった社会民主党(SPD)の1959年のバート・ゴーデスベルク綱領だ。それまではマルクス主義を基礎とした労働者のための政党であったが、ここでは国民のための政党になることが高らかに宣言されたのである。これがいわゆる大衆政党の始まりの一つといえよう。
大衆政党とは端的に定義づけて仕舞えば、特定の利益団体に依拠することなく、国民全体のことを考えて政策立案する政党の形である。あくまでこれは理念型であるから、実際には支持団体はあるしそれを考慮して政策を立てているであろうが決してそれに依存して政策が固定化してしまうことはないと言うのが建前だ。それまでの組織政党では支持母体の意向に固められて政策を決めなければならなかったため、政策の柔軟性に欠けており、また支持母体の外の人々の支持は望めなかった。しかし大衆政党では柔軟な政策決定と国民全体からの支持が期待できるようになるのである。
しかし一方でデメリットもやはりある。大衆政党はサブカルチャーがないため、党員や支持母体からの多数の固定票や選挙活動での協力、さらには政党としての活動資金が得られなくなってしまったのだ。絶対に投票してくれる固定票を失えば、状況によっては議席が失われる危険性がある。また資金に関しては政党交付金などの制度を設けて代用できるものの、活動によるコストは常にかかってくる。また、有権者としてはサブカルチャーがないので、直接的に政策決定に関与しうる機会が選挙による投票しかないというのもデメリットだろう。
戦後日本の政治史を見ていくと、ごく一部の政党を除いて、ほとんど全ての政党がこの大衆政党と言っていいだろう。いや、ある意味では戦前から組織政党が形成されてこなかったと言う意味では、普通選挙の成立からずっと名望家政党と大衆政党の中間のような政党形態だと言うべきだろうか。デュベルジェは名望家政党(幹部政党)と大衆政党を対立概念として捉えていたが、ある意味では普通選挙下でマスメディアを通じて情報発信するようになった名望家政党こそが大衆政党であり、大衆政党=ネオ名望家政党と呼べるのではないかと思われる。少なくともメリットとデメリットを確認するとかなりの部分が重なっているだろう。
ネオ組織政党という戦略と挑戦
ようやく本題にはいる。前置きが長くなったが、これで今回の事件、というか問題の政党史的な位置付きがおわかりいただけたことと思う。大衆政党=ネオ名望家政党制下での日本政治では、政党側として資金や選挙活動への動員人員、選挙における固定票が手に入らないと言う問題を抱えている。それは間違いなく組織政党時代にはなかった問題である。だからといってそのシンプルに組織政党に戻れば、資金や運動員、固定票は獲得できるものの、組織外からの得票は望めず、他党との協調も難しくなってしまう。
そこでどのような戦略が取られたのか。それは小規模な利益団体の支持を基盤のひとつとした大衆政党=ネオ組織政党になると言う戦略である。これは20世紀末から自民党が意識的に取り始めた戦略である。その一つが公明党との連立である。本来自民党は単独で過半数を握れる大規模政党であり、公明党との協力の必要性はないはずであるのに、どうして連立政権を組むのだろうか。ここには2つの背景が考えられる。まず第一に、2009年の民主党への政権交代があったように、その時期の自民党は五十五年体制の頃には盤石だった支持を失い始めていたことである。しかしこれだけの理由では他の政党との連立だって十分に考えられるはずだ。事実村山政権や橋本政権は社会党との連立政権だったのだから。しかし必ずしも政策間の距離が近いとは言えない公明党との連立を選んだことには公明党という政党の特徴が深く関わっている。そしてそれが第二の背景なのだ。
その第二の背景とは、公明党は国内で共産党を除いて唯一の大組織政党だと言うことである。公明党は創価学会を利益団体として持っており、選挙運動への動員や固定票を獲得できていた。そんな公明党と特定の政策について妥協して連立政権を組むことで、他の政策についてはより確実に自己の政党の主張を通すことができるようになる。それに加えて、大衆政党にはなかった選挙における組織力が、選挙協力をし、「選挙区では自民党、比例で公明党に」と呼びかけてもらうことで、低コストで獲得できるのだ。
こうした連立の背景を見ると、今回の一件もこうした流れの延長に見てとれるように思う。特定政策について強い利益をもつ団体が、ある種のアウトソーシングされたサブカルチャーとして選挙時に政党に協力し、その見返りに政権獲得時にはその特定分野での便宜を図ってもらえる。政党側から見れば、外観としては大衆政党としての体裁を保つことができ、かりに取りたい政策と利益団体の要求が大きく乖離していた場合は選挙協力を断っても、ほとんど利益団体からの投票にのみ依存していた組織政党時代に比べるとダメージは小さい。ある意味ネオ組織政党は、政党の側からすると、大衆政党のデメリットを部分的な組織政党化で補ったとても合理的な選択なのである。
ではいいこと尽くめなのかと言われるとやはりそうではない。それは大多数の選挙権者にとってむしろ難しい状況になったことを意味するのである。それはどの政党に投票すればどう言う政策が表出されるかの予測可能性が格段と低まることを意味するからだ。組織政党時代なら特定の大きな利益団体の利益を表出するのが政党だったからわかりやすかった。しかし自民党と公明党の連立のようなものならまだしも、小規模な団体の意見が反映されるとなると、その影響関係は見えずらい。また今回のケースのような場合、統一教会と自民党の関係自体もほとんど可視化されていなかったのだから有権者の側からすると予測不可能としか言いようがない。
しかしだからといって、まだ過渡的なネオ組織政党を一概に否定するべきでもないとは思う。予測可能性の問題については、選挙時点でどの団体がどの政党を支持して行動するかが明示されるような制度設計をすればある程度解消可能だと思われる。むしろより団体の政治運動への参入障壁を低めて行けば、組織政党時代のように人々の政治参加の機会が充実しうる可能性も持っている。繰り返すが、ネオ組織政党はまだ過渡期の段階にある。今回の件で性急に良し悪しを判断するのではなく、むしろこの流れを推し進めることで新しい政治のありようの可能性もあるのだ。
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