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生きる歓び

 2021年5月27日、仔猫が2人産まれた。その話を父から聞いて、僕はすぐにその週の金曜の仕事を終えると、実家へと戻ってきた。無論、2人の赤ちゃんとお母さんの福ちゃんに会うためだ。
 子供が産まれることは、はっきり言って薄々とわかっていた。GWに帰省した時には、お腹はずっと大きくなっていて、抱っこした時も随分と重たい。
 去年の9月にオスのニコちゃんが、12月にメスのまりんが突然死んじゃって、今うちにいる猫は福ちゃんただ1人だ。じゃあなんで妊娠したのか?ニコちゃんとの子供だとすると産まれるのが遅すぎるし、それよりも何よりもニコちゃんはまだちっちゃかった。お盆過ぎの暑い日に、バルコニーでぐったりしているニコちゃんを心配して母がうちに迎えたのがまだ2、3ヶ月くらいの時で、それから1ヶ月ほどで猫コロナで高熱を出して、ご飯も食べれないようになって死んでしまった。
 じゃあ福ちゃんはどうして?原因はわかっている。それは3月末の夜の、たった一回の脱走だ。外には野良が何人もいるのは、ニコちゃんもその1人だったんだから当然知っていたけれど、福ちゃんは外に出たがることがなかったから、心配もしていなかったし、去勢もしていなかった。しかしたった一回、玄関の扉の僅かな隙間からすり抜けた。父と母と僕の3人で捕まえようとしたけれどダメで、藪の中に消えてしまい、近くか遠くかあやふやに鳴き声だけが聞こえて来る。「もう帰ってこないかもしれない」と母は言い、「ちょっと経てば戻って来るだろう」と父は言う。しばらく探したけれど甲斐もない。帰ってきたのは翌朝の4時ごろで、母がいつも起きる時間に、外で何食わぬ顔で待っていたらしい。
 その時は帰ってきた安堵感だけがあった。それでしばらくはそのことなんて忘れていた。けれど段々食べる量が増え、すぐにお腹が大きくなってきたから、初めは太っただけだとみんな言い訳をしていたけれど、僕がGWに帰省した頃にはもう誤魔化しようもなかった。
 病院に行くと、身篭っているということ、出産予定は5月末と言うことを言われた。要するに思い設けぬ妊娠だったわけだ。たしかに仔猫が産まれるというのは大変なことだ。3人ともなると本当に大変だし、これまでも3人の猫と暮らしてきたとはいえ、赤ちゃんの育て方なんてわからない。けれど堕ろすという選択は父にも母にも、僕にもはじめからなかった。


 チコとマルが産まれたという報せを聞いた日、僕はその日が一日中歓びに満ち溢れていることを感じた。こんなに歓ばしいことは他にはない。そんな時、我が敬愛する作家、保坂和志さんのツイートを思い出した。

「反出生主義」という考えがあることを、5月3日の朝日新聞で知った。
(A)子供を持たない方がいい
(B)生まれてこない方がよかった

A B両方の立場みたいだが、AとBは違う。保護猫活動をしている人たちは、避妊はする(A)けれど、生まれた子猫は育てる(反B)。
 朝ドラの『ゲゲゲの女房』では、ろくに収入もないのに妊娠してしまい出産に至る。
それ見ながら、「子供は計画性なしに、〈できたから産む〉ものだったんだなあ」「将来のことまで考えてたら、子供なんて作れないんだなあ」と思った。
 私は自分の人生においては反出生主義だったわけだ。基本的に「猫は可愛いが人間の子供はそうでもない」だったが、最近は歳のせいか、子供はみんな可愛いし、小さな子を見てて涙を流すことさえある。
 生きる死ぬの問題は、「主義」という明確な立場をとること自体が、なんか違うというか、幼稚だったり身勝手だったりに見える。『猫がこなくなった』収録の「夜明けまでの夜」は、命に対する私としての考えだ。つまり、
「命はこっちの思い通りにならない」
(上記ツイートより引用)

「命はこっちの思い通りにならない」、これは産まれることにせよ死ぬことにせよだ。死ぬ時は本当に突然で、ニコのときもまりんのときも本当に悲しかった。福ちゃんがマルとチコを産むときも、こっちの意志とは無関係にできてしまった。しかし、だからといってまりんとニコが過ごしていた時間は歓びに満ち溢れていたし、マルとチコ、それに福がこれから過ごす日々も歓びに満ち溢れている。彼らが産まれてこなければよかったなんて言わせない。それは人間だって同じはずだ。猫も人も、意志とは無関係に産まれるし死んでいく。生きていく中では辛いことだってやっぱりあるだろう。けどやっぱり産まれてしまったからには、僕はやっぱりその生を歓んで、肯定していきたい。

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