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心の治癒力が症状を悪化させるとき

 今までは、病気や症状を改善させる心の力という意味での「心の治癒力」を中心に話をしてきましたが、実は心が症状を悪化させることもあります。
 通常、開発された薬が本当に有効なのかを調べるために、本当の薬とプラシーボ(デンプンの粉などでできているもの)のどちらかを処方し、その両者を比較する「治験」が、一般の病院の患者さんの対象にごく普通に行なわれています。

ノーシーボ反応


 例えば、うつの患者さんに対する抗うつ剤の治験では、実際の抗うつ剤かプラシーボ(デンプンの粉などでできているもの)のどちらかを患者さんが飲むことになります。その際、薬の効果だけではなく副作用もすべてチェックされます。すると、プラシーボを飲んだ方の患者さんでも眠気や吐き気、倦怠感といったネガティブな症状を訴えることがあります。これらは通常の抗うつ剤を飲んだときの副作用と同じです。もちろんプラシーボ自体は単なる乳糖やデンプンの粉ですので抗うつ効果がないかわりに副作用もありません。にもかかわらず副作用は一部の患者さんには認められるのです。このようにプラシーボを飲んだときに、症状が悪化するとか副作用がでるといったネガティブな反応のことをノーシーボ反応と言います。

ノーシーボ反応はなぜ起こるのか

 なぜこのようなことが起こるのかというと、人によってはよくなることへの期待感よりも、何かの副作用が出たらどうしようという不安感や心配の方のスイッチが入ってしまう人がいるからです。そのような場合、ネガティブな心の状態が自律神経などのバランスを崩すため、それに伴い吐き気やめまいといった症状がでてくるのです。その思い込みが強いと、ときに激しい身体症状を現す場合もあります。
ノーシーボ反応により重体になることも
 例えば、このようなケースがありました。22歳の男性が失恋を苦に大量の抗うつ剤を飲んで自殺を図り救急搬送されました。そのときの血圧は80mmHgまで低下、脈拍も110回/分、意識ももうろう状態であり、このままだと亡くなる危険性もあったため、とりあえずの応急処置として点滴をしました。しかし、最終的には6リットルもの点滴をしたにもかかわらず血圧は100mmHgまでしか上がりませんでした。
 処置をしている間に、飲んだ抗うつ剤について調べたところ、実は治験薬であることがわかりました。治験薬の場合、実際の抗うつ剤を飲んでいる場合と、乳糖などでできた全く薬効のないプラシーボを飲んでいる場合の両者の可能性があります。緊急事態なので、すぐさま治験を行っている製薬会社に問い合わせ、彼が飲んだのはどちらかを調べてもらいました。すると彼が飲んだのはプラシーボの方だったのです。つまり、これをいくら飲んでも薬効はもちろん、身体に対する悪影響も全くないのです。そこで担当医が、本人にその事実を伝えました。すると15分後には血圧は120/80、脈拍80に回復したのです。その後、意識ももどり、そのまま歩いて帰ったというのです。
 このケースでは、飲んだ薬がたまたまプラシーボだったのですが、飲んだ段階では本人にはわかりません。本来ならプラシーボを大量に飲んでも悪くなるはずはないのですが、これでもう死ねるという「思い込み」が、薬を飲むという「行為」により活性化され、その結果、自律神経系のバランスに悪影響を及ぼし、血圧を下げ意識をもうろうとさせたと考えられます。
 ところが、飲んだのはプラシーボだと知らされ、これでは死ねないという認識が生じ、よい意味でのあきらめ感や安堵感がでてきたのだと思われます。そうなれば、自律神経系の働きは正常にもどり、自ずと血圧や意識レベルも回復したと考えられます。

ノーシーボ反応としての脱毛や頭痛

 ノーシーボ反応に関する報告は他にもたくさんあります。例えば、抗がん剤の臨床試験の際に、これは抗がん剤ですと伝えたうえで生理食塩水を点滴したところ30パーセントに脱毛が起きたという報告があります。
 また、34人の大学生を対象とした研究では、身体にモニターを装着した上で「頭部に電流を流すが、副作用として頭痛が起こるかもしれない」と被験者に伝えたところ、実際には全く電流を流さなかったにもかかわらず、三分の二の人が頭痛を訴えました。これらはすべて、髪の毛が抜けるとか頭痛が出現するといったネガティブな思い込みが症状を作り出したノーシーボ反応の典型例だと言えます。

ノーシーボ反応としてのモルヒネの副作用

 医療現場でもノーシーボ反応の例はたくさん見出すことができます。例えばモルヒネ系の鎮痛剤には吐き気の副作用があります。そのためこれをがん患者さんに処方する際、「人によっては吐き気の副作用が出る場合があります」と説明するのが一般的です。ところがこのような副作用の説明をするのと説明をしなかった場合とでは、前者の方が吐き気の副作用を生じた人が多くなるという報告があります。ですから私も、薬を投与する際、あまり副作用のことを強調しないように気をつけています。

ノーシーボ反応で死ぬことも

 このように副作用が生じる程度ならまだしも、時にはノーシーボ反応により人が死に至ることすらあります。これは1970年代のアメリカでの出来事ですが、ある70代の末期の食道がんと診断された患者さんがいました。すでにがんは転移し、肝臓を覆い尽くされており、手のつけられない状態であることが本人や家族に伝えられました。予想通りその数ヶ月後にはその患者さんは亡くなりましたが、解剖をしてみると医師の誤診であることがわかりました。解剖の結果わかったことは、ちょっとした気管支肺炎とほんの小さな肝臓がんがあっただけであり、死因となりうるものは全く見つけられなかったのです。この患者さんの死因はがんではなく、がんで死ぬという「思い込み」だった可能性が高いと思われます。このようにノーシーボ反応はときに人を死に追いやることすらあるのです。

 このような事実からわかるように、心の治癒力は「諸刃の剣」なのです。その人を喜ばせ、期待感を膨らますような「きっかけ」があれば、症状が改善することもありますし、逆にネガティブな思い込みを抱かせるような「きっかけ」があれば、ときに症状が出現したり悪化したりするのです。心の治癒力は様々な「きっかけ」により病気や症状にプラスにもマイナスに働く存在なのです。
             イラスト:子英 曜(https://x.com/sfl_hikaru


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