世界を愛し損ねたひと
彼女と別れて、三年以上の月日が流れたのに。
「わたしねえ、どうして生きているのか、わからないの」
三月、桜もじきに咲きだすころ、二週間振りに会った元カノはそう言って、一口、メロンソーダを飲んで笑った。
不意だった。
昼下がりのカフェで、僕らはのんびりと談笑をしていたはずだった。
先程まで柔らかい光の中、近くにあったカフェの喧騒が遠くなる。
彼女の仕事が早く終わる水曜は、時折SMSが届く。
その日も特に何をするでもなかった僕は、二つ返事で彼女の誘いに乗ったのだった。
彼女は僕と別れた頃より、ずいぶんと太って、ガリガリからちょっとぽっちゃりにジョブチェンジしていた。
きっと、今の恋人のお陰なのだろう。
現に付き合っていた頃はひどく情緒不安定で喧嘩も多かったが、今の恋人とは上手くやっているらしい。
別れてからも、共依存だった頃の名残からか、友達と元恋人の中間という曖昧な関係で、ちょくちょく会っていた。
だが何となく、久しぶりに彼女のダークサイドを覗いた気がして、一瞬身構える。
彼女はくいっとぽってりした唇をつり上げて、ぎこちなく微笑んだ。
僕の嫌いだった笑いかたを見て、僕はいまだに彼女の心は少しだけ、僕に向いていることを再確認した。
「彼のことは好きなの。でもね、わたし、誰といたいのか、誰にいてほしかったのか、わからないの」
彼女はよく、センチメンタルなことを言う。
複雑で単純な、言葉にもならない感情を拙い言葉で、舌足らずなしゃべり方で、身勝手に僕に問う。
答えなんて、求めてはいないくせに。
抱えきれないどろどろした感情を、僕にぶつけては、安堵しているのだろう。
「……そんなん、俺が知るわけないでしょ」
煙草に火を点けながら軽くあしらうと、彼女はふわりと笑って、そうね、と呟いた。
そのあとの彼女はごく普通だった。
よく食べ、よく笑い、よく喋った。
その姿を見て、僕はすっかり安心する。
さっきのダークサイドは気のせいだったのだと。
「じゃあ、そろそろ彼が帰ってくるから」
「仲良いなあ」
スマホで時間を確認しながら、彼女が席を立つ。
彼女はうふふ、と笑って、会計のレシートを手に取った。
それは自然な仕草で、彼女の時間が確かに動いていることを僕は思い知った気がする。
会計は、僕が少しだけ多目に出した。
男のプライドとして。
帰り道の車内はいつも静かだ。
それは互いに帰りがたいような、早く帰りたいような、複雑な感情をもて余しているのかも知れなかった。
運転席の彼女がカーオーディオから流れる曲に合わせて鼻唄を歌っている。
彼女の趣味である、RADWIMPSの明るいラブソングがやたらに耳障りだった。
思い出の、ラブソング。
「ねえ、ひーちゃん」
こういうときに口火を切るのはいつも彼女だ。
努めて明るい口調で、どうでもいい話題のあと、必ず僕との思い出をどれだけ忘れたかを報告してくる。
それは、彼女の終わらない依存へのけじめのようにも感じていた。
「それでね、ひーちゃん…」
彼女の愛猫たちの間抜けな和み話が終わり、彼女の声がふと真剣味を帯びる。
今日はどんなことを報告してくるのだろう。
どれだけ、僕との思い出を忘れたのだろう。
半ば諦めにも似た寂寥感を覚えながら、彼女の言葉に耳を傾ける。
「わたしがね、いつか、もしも」
僕と別れてから、ずっと短くしている癖っ毛が彼女の吐息に揺れる。
彼女がショートヘアーが似合うのを、僕は別れてから知った。
僕色に染め上げた、僕だけのものだった彼女は、僕の知らない色だった。
彼女の横顔は、何も映さない。
「結婚するときは、一度だけ抱いてほしいの」
彼女が赤信号で止まる。
ふと、僕を見た彼女の表情で僕は先ほど感じたダークサイドが気のせいでなかったことに気づいた。
懇願の眼差し、別れた頃の、嘘でもいいから好きといってくれと泣いていた、目。
嘘でもいいから、抱くといってくれ。
それまでに、忘れてしまうから。
何もかも、こんな戯れ言も、お互いの関係も、顔も、声も、存在すらも。
出来やしないのに、お互いに。
「…結婚できんの、その前に」
「……だから言ってんだよ、ばーーか」
信号が青に変わる。彼女の口調がいつもの軽口に戻って、変わらない強がりに笑ってしまう。
ふと、彼女が囁く。
嫉妬と、本心の入り交じった、優しい懇願。
「…大事にしなよ、彼女」
「…言われなくても、するよ」
僕の掠れた返事に、彼女は切なく笑った。
どうして、いつまで経っても彼女と逢うと切なくなるのだろう。
消えた未来が恋しいのか、ただ身体の隙間の寂しさなのか、互いに依存しあう僕らは何を互いに伝えたりないのか。
僕らは、何も理解できないまま、互いに離れていけないでいる。
彼女と別れて、三年以上経ったのに。
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