見出し画像

アサクリ問題にオタクとして思うこと

最初に私は大学受験のセンター試験に日本史を選択した辺りで日本史についての学習を終えている。なので、日本史についてはめちゃくちゃ詳しいという訳では無い。そこはご了承願いたい。

まず、アサクリ問題に関しては大きく二つに分けられると思っている。それは日本の歴史を軽視した問題と日本の文化を軽視した問題である。前者は資料から断定できないにも関わらず弥助を偉大な侍と述べ、その上でインタビューで繰り返し本作の歴史の正確性を訴えている所が主だと思う。また、後者に関しては文化財の無断盗用疑惑や各種ゲームイベントの本作ブースでの不手際などがあると思う。

そのような問題を認識した上で私が腹立たしいのは「制作陣の作品におけるストーリーの軽視」である。

なんでそう感じたか

アサクリ問題を語る上で比較対象にされがちな作品がある。それがFate/GrandOrderである。そして、私はこのFGOの大ファンである。現在配信中の奏章Ⅲも配信直後に攻略を済ませるほどに好きで、つい先日課金してBBドバイを引いた。

そんなFGOといえば、世界各国古今東西の偉人を女体化したり、トンチキイベントに放り込んだりと好き放題しており「他国の歴史に失礼だろ」と言われれば、それはそうだと思う。もちろん、FGOは「この作品世界ではこういう歴史を辿っていた」ということを押し出していて、正確だなんてことを制作陣が発信していない。そこはアサクリと違うと思う。

ただ、もう一つ大きく違うところがあるとすればそれは、ストーリーをどれだけ重んじているかという所だと思う。そして、私はストーリーを軽視していることがなにより弥助と日本に失礼ではと思う。

じゃあ、FGOでは?

繰り返すが、FGOは歴史に正確な作品じゃない。あれが正史とかたまったもんじゃない。

それでも、私はFGOを通じて歴史に興味が湧いたし「知りたい」と思える偉人が増えた。実際にガチャの触媒に買ったマハーバーラタは読破した。そんなふうに私が動けたのは何でだろう、それは何故なんだろうと考えた時に、FGOはストーリーが魅力だったからなのかなと考えた。

FGOの目玉はストーリーである。そのストーリーで繰り広げられるのは、人類の未来を取り戻そうと必死に戦いに挑む主人公と様々なキャラクターが主人公と共に戦い、背中を押していく英雄譚であり、冒険譚である。

FGOは、登場するキャラクターが歴史に由来するのが大半であり、そのキャラクター達が歴史や人々が語りついだ伝説によって形作られストーリーに登場する。そして、そのキャラクター達が私にとってはなにより魅力的で、ストーリーをクリアする度に涙して、好きになっているのである。

私と生きた時代も違う、人種も性別も違う、それでも我がことに置き換えて涙して好きになってしまう。こうして、「全く違うバックボーンの人と同じ思いになれる」のがストーリーの力じゃないかと思う。

だからこそ、人種、性別、文化的背景、そういうものが今を生きる自分達と一致していないと思いを馳せられない、今を生きる自分達の社会や風潮と一致しないと政治的に正しくない、そういうことがストーリーへの軽視としか私には思えない。

人は物語を通じて、違う世界を生きる誰かのことを想えるものなんじゃないのか?と思うからだ。

私は涙腺が弱いので軽々に泣いてしまうのだが、特に涙したのが一部七章バビロニアでの牛若丸とレオニダスVSゴルゴーン戦だったり、自らの身を投じるアナであったり、二部一章アナスタシアで最後までピアノを弾くサリエリの姿だったり。あと、アトランティスでのマンドリカルド、オリュンポスでの武蔵の最期、トラオムでのドン・キホーテの負けるとわかった上での一騎打ちや、最近だとイドは最後の方ずっと泣いていた。

FGOのプレイヤーなら私と同じ感じで涙した人も多いと思いたい。そして、涙した人が多いんじゃ?と思える理由として、人種も文化も性別も何もかも違っても、人は他人の苦しみや悲しみに思いを馳せることができるし、誰かが誰かを想いながら戦い、別れ、それでも前に進むことへの切なさや勇気に人種も性別もへったくれも無いからじゃないかと思う。

例え、自分が友達を置いて死んでしまうとしても、友達の未来のために剣を振るうことの想いと勇気に人種なんか関係あるのか?私は無いと思う。誰がそうしたって人は涙するし、友情の尊さを想うと思う。

例え、自分が負けて死ぬと分かっていても、現実に屈して自分の夢を裏切ることを選ばずに戦いに挑むことの誇り高さに性別なんて関係あるのか?私は無いと思う。誇り高い生き様の尊さに誰だって胸を打たれると思う。

そうして、自分と全く違う人のことを想えるのがストーリーの力なんじゃないのかと思う。そして、そのストーリーから得たもので毎日を頑張ることが出来るのがゲーム全般、コンテンツの力だと思う。だからこそ、コンテンツの中で自分の胸を打つストーリーやキャラクターとの出会いはかけがえのないものだと思える。

もちろん、現段階でのアサクリのストーリーが面白くないなんてことは言えない。そもそも発売されてないので分からない。でも、制作陣の「私たちの目になれる侍」(日本語訳しか当たれてないので間違えていたら申し訳ない)発言や、ポリティカル・コレクトネスのコンサルタントの存在など、「それよりも作品作りでもっと大事なことがあるんじゃないの?」と思わせる要素があまりにも多い。

作品作りで大事なのは「面白さ」だと思うし、その「面白さ」はゲームのグラフィックや操作性だけに依拠したものじゃない。キャラクターが生きる物語にだって面白いと思わせる力はある。

そして、改めて制作陣へ思うことがあるとすれば、弥助の人種という要素がないとストーリーを楽しめないだろうというのはストーリーの読み手とストーリーが繰り広げられる舞台の歴史に失礼じゃないか、ということ。

弥助じゃなくて日本人男性が主人公でも、ストーリーの力さえあれば「あなたの目線」になれたんじゃないか、ということ。

日本人のゲーマーの大半は弥助が主人公でも楽しめる人だと思う。面白いと思えれば楽しめる。だけど、日本人男性だと目線を同じくできないのか、とか、弥助という黒人を主人公にし、政治的に利用したいがために日本を選んだのか、とかそういうことを思うと楽しいものも楽しめない。

だから、全ての問題を片付けて、アサシンクリードシャドウズとそこで語られる物語が楽しめるものになることをゲームが好きなオタクとして祈っている。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?