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私の身体という過酷な場――フーコー・バトラー・イグナイト

変身ヒロインのアナキズムのための読書メモ
ミシェル・フーコー「ユートピア的身体」を読んだりしながら今日もイグナイト重点
論考めいてまとまってはおりません


フーコー

「私の身体という過酷な場」。1966年12月7日、ミシェル・フーコーはラジオ講演においてそれを語り始める。「私の身体、それは私がどうしようもなく余儀なくされた場所なのである」。出発点、生まれてきたこと生きていること自体がすでに枷であり鉄格子の牢獄なのだと感じてしまった者にとって、身体はまさに過酷な場というほかない。
ましてや、先天的パイロキネシスの身体であるイグナイトにとっては。

フーコーはここで、身体に施され身体を構築する2つの書き込みというテーマに触れている。
1つはお馴染みの権力スジがもたらす身体の調教であり、従順で無害な身体を捏ね上げるための書き込みであり、ブッダファックだ。
そしてもう1つは、「刺青をすること、化粧をすること、仮面をかぶること[……]、身体を秘密の力、不可視の力との交信状態に入らせること」、ある程度抵抗的ではある、上書きの書き込み。
パイロキネシスの身体がニンジャになり、ワンボーイを受け入れ、同時にワンガールを産出し、そしてまたワンボーイを解き放つ。イバラめかしたタトゥーはいつ描かれたのか、飜るマフラーに脈打つ地獄おは誰が刺繍するのか。生来から書き込まれていた身体、憑依される身体、受け入れ解き放つ身体、苛酷な変身が繰り返される場としての。

たしかにそのようにして我々は変身について何か考えるためのツールをひとまずは手に入れる、しかし。


バトラー

同書所収の論考「フーコーと身体的書き込みのパラドックス」において、ジュディス・バトラーがすぐさま問いかける。
身体はファック野郎たちの書き込みによって構築され、そこにキツネサインを立てるために反抗を上書きするのだとしたら、アイデンティティをどうするかということだ。
ファック野郎に書き込まれる以前の身体、ゼロ地点、精神分析が欲動とか本能とかをいう階層にゴールを定めることはできない。ホントウのワタシめいてワイルドで無垢な何かがありそうなその身体すら、常にすでにファック野郎が作り上げた言説的構築物であることを実際明らかにしまくったのはフーコーにほかならない。
だとしたら、この抵抗は何を賭けているのか。
単に明日なき逃走、とにかく行ける限りの何もないゼロ地点をそれでも目指し、走り着いた先で消滅することが救いなのか。
素朴な仮定を排すると、アイデンティティは単数だの複数だのといった話や作られ方の話はもはや意味すら持てず、まずはそれがあるとしたら、観測と同時に変質する類の出来事に何のパワがあるのかを最低限見定めておかないと何をしているのだかわからなくなる。

ここから先はもう、ニンジャの世界になる。


イグナイト

たいてい、変身ヒロインには変身前と変身後があって、彼女は前と後を行き来して日常したり戦ったりする、つまり激しく前後する。
それならばイグナイトを激しく上下する変身ヒロインとイメージしておこう。
第3部ネヴァーダイズでのワンガール・ワンボーイ状況は実際激しく前後するほうの身体であり、だからこそ彼女はその変身を大歓迎はしなかった。
激しく上下する変身ヒロインは、船の鼻先に突き出した細い1枚板の先端から、跳ぶ。もとの場所に戻ることはない。変身は一方通行であり、変身し続けなければ海底にロブスターが待つだけだ。海中でのカトンは不利な可能性が高い。

ならばセイシンテキは抜きでの、身体のみをよすがに燃えるニンジャのアイデンティティ。ここに至って、例のシーンでの台詞が簡単には読み過ごせないものとなる。

「毒? そんなもん、焼けちまったンじゃねえの? 今アタシ体温何度あるのかな?」

前後しかしない変身ヒロインなら、こういうピンチ場面はなにかスゴイキモチとかを使って切り抜けるので具体性がない。だが真の変身ヒロインは具体的に体温が何度あるのかが重要だ。
燃えたものは元には戻らない。家であれば焼け落ちるし、モータルなら実際死ぬ。燃えても死なない身体の彼女だけが、幾たびもの上下を生きる。そのたびごとに焼き払われ、新たに書き出される身体。ゼロ地点など遥か、振り向くすべもなく。
それでも彼女とて時折、過去のことに少しだけ触れる。匂わせる程度に触れる。何もなかったわけじゃない。炎の夢。おばあちゃん、お父さん。焼き尽くしてもなおそこに在る灰。

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