ステートメント_アルコール依存のケース🥃/川島 航
🥃成人男性の適正飲酒量は、純アルコール量で一日20グラムと言われている。
🥃健康診断の際に、イラスト入りの表を見せられた者も多いだろうが、これはビールならロング缶一本(500ml)、ウィスキーならダブル一杯(60ml)、日本酒なら一合(180ml)だ。
🥃加えて、週2日以上の休肝日を設けることが望ましい。
🥃「適度な運動」が多くのデスクワーカーにとって困難であるように、あらゆる健康目標は、それを日常的に達成している者にとっては簡単過ぎるものかもしれないが、そうでない者にとっては、とてもじゃないが実現不可能に思える代物である。
🥃普段から飲酒の習慣がない人間からすれば、ロング缶を一本空けること自体が珍しいだろうし、反対に晩酌の習慣を持つ人間が、一本目を飲み切ったというのに二本目に手を伸ばさないなんてことはそうそう起こり得ない。
🥃また、この適正飲酒量を厳守していない人間のすべてが、必ず肝機能障害に悩まされるわけではないし、常時手が震えているわけでも、仕事中にこっそり飲んでいるわけでも、酒が足らないことの腹いせに周囲に暴言や暴力をまき散らしているわけでもない。
🥃当然ながら、社会に向けて提示された健康の基準というものは、そのまま個人のケースに落とし込めるものではないし、創作物に登場するような、ステレオタイプな「アル中」の姿だけがアルコール依存のすべてではない。
🥃そこには各個々人の、無数のケースが存在している。
🥃だから、僕は実際に自分の身に起きたことを書きたいと思う。
🥃そもそも、それ以外に書けることなど何もない。
🥃僕の場合、人生で最も飲酒量が多かったのは、二十歳を迎えてから一年間くらいのことで、一人暮らしをしていたことがその大きな要因だったと考えている
🥃実家のような共同生活の場でも、あるいは居酒屋などの大衆に開かれた場においても、他人の目がある以上、十分な節度が求められるが、一人暮らしの部屋で飲んでいる分には、誰に気兼ねすることなく酒を飲むことができる(できてしまう)環境だった。
🥃結果として、当時の僕は毎晩記憶を失くし、毎朝トイレで嘔吐し、月の半分は二日酔いで終日寝込んでいる、というような状態だった。
🥃もちろん、実家を出た初日からそのような生活をしていたわけではない。
🥃新生活を迎えた人間の多くがそうであるように、初めのうちは隅々まで「こだわり」を持った生活を目指しており、自分なりにそれを実践しているつもりだった。
🥃しかし、前述の健康目標がそうであったように、生活上の目標も、個々人の(僕個人の)実際の生活に即したものではなかったため、その実態は次第にだらしなく(良く言えば、実用の観点からより効率的なものに)なっていくものだった。
🥃それは晩酌に関しても言えることで、初めのうちは部屋に複数の酒瓶を飾り、気分によって銘柄を変える、といった、気取った飲み方をしていたのだが、気付けばそれがいつも同じ味の缶チューハイや発泡酒になったり、紙パック入りの日本酒や箱ワインになったりした結果、最終的にペットボトルに入った4ℓの甲類焼酎を常備するに至っていた。
🥃摂取するアルコールの質によって中毒性やその他人体への影響がどのように変化するのかについて、専門的なことは僕にはわからないが、それでも、安価な酒を飲むことは、その者をアルコール依存へと導く大きな要因だと思う。
🥃少なくとも僕の場合、安い酒を飲んでいると、味わいながら飲むことや、惜しみながら飲む、ということをしなくなる。
🥃加えて、量があるので、飲んでいる途中で酒が足りなくなる、ということがほとんどない。
🥃僕は自制心が弱く、貯金や備蓄はもちろんのこと、「腹八分目に抑える」というのがどうも苦手で、一度食べ始めると、腹が苦しくなるまで胃に物を詰めなければ気が済まないのだが、それは飲酒についても同じであり、いい塩梅でやめる、ということがどうしてもできない。
🥃結果として、毎日の晩酌が意識を飛ばすまで終わらなかった。
🥃当然、そのような生活を続けていると身体に異常をきたす。
🥃一つ例を挙げれば、酒を飲むと手のひらに赤い斑点ができるようになった。
🥃これは飲んでいる間だけ現れる症状で、手のひらが赤くなると同時に、皮膚の裏側というか、皮膚と肉の間辺りが妙にむず痒く感じ始める。そのため、用を足したあとにズボンで手を拭うような下品な仕草で、手のひらを自身の太ももに何度も擦り付けることが、当時の僕の癖になっていた。
🥃もう一つ、わかりやすく、かつ個人的に最もキツかったのが寝汗である。
🥃こちらは逆に酒を抜いた日や、飲み足りない状態で布団に入った日に現れる。
🥃特に苦しいのは冬である。
🥃気温からくる発汗ではないため、衣類や寝具の調節ではどうにもならず、夜中にやかんをひっくり返したかのような大量の汗をかいて目を覚ます。夏であれば、いずれにせよ多少の汗をかくし、布団を剥いでしまえばそれだけで楽になるのだが、当然冬にはそうはいかない。
🥃真冬の、外気が零度を下回っているような深夜に、下着やシーツを水に浸けておいたかのような状態で目が覚める。それは「湿っている」などといった生易しいものではなく、いつも完全に「濡れている」状態だった。空調のリモコンに腕を伸ばして部屋を暖め、なんとか布団から這い出し、震えながら寝巻を着替えるのだが、それでも濡れたままの布団では不快感で寝付くことができず、また、運良く眠りにつけたとしても、数分後には再び同じ量の汗をかいて目を覚ますことになる。
🥃そのような状況で、まともな睡眠をとれるはずもなかったので、酒を抜いた日には必ず徹夜同然で朝を迎えることになった。
🥃ここで逆転が起きている。
🥃一般的に、寝酒をすると睡眠の質が低下すると言われているが、こうなってくるとアルコールを摂取した方がマシな睡眠をとれるようになる。
🥃一睡もできないよりは、ほんの数時間だけでも浅い眠りを享受できたほうが、体感として楽だった。
🥃いわゆる「機会飲酒」ができていない時点で、アルコール依存の第一歩目を踏み出していると言われているが、日常の一部になってしまえばそれは紛れもない依存状態である。
🥃依存とは、日常化や習慣化のことだと思う。
🥃僕の場合、寝食や入浴なんかと同じように、飲酒が習慣として生活に組み込まれていた。
🥃そのため、酒を飲まない日には、それこそ徹夜をしたり、飯を抜いたり、しばらく風呂に入っていないときのような、頭の回らない状態で過ごすことになる。
🥃ただし、これに関しては、僕は元来腑抜けた人間であったため、いわゆる「禁断症状」のためにこうなったとは一概に言い切れない。法的に飲酒が制限されていた未成年の頃には、学校がない日に一日中布団の中で過ごすことなどざらだったし、酒を覚えたことは、僕の素面の側面には、特に何の影響も与えていないのかもしれない。
🥃もしくは、そういった無気力な人間が、アルコール依存症に陥りやすいのかもしれないが、僕は医者ではないので詳しいことはよくわからない。
🥃僕に言えるのは、僕という人間が、何か行動を起こす前に必ず酒を飲むようになった、という事実だけだ。
🥃市役所や銀行関連の手続きを進める際や、友人からのLINEに返信する時、あるいは日用品の買い出しに出かける時や、部屋の掃除をする際などにも、酒を飲んでからでないとやる気が起きない。
🥃同語反復になるが、飲んでからでないとやる気が起きない、ということは、飲むとやる気が起きる、ということだ。
🥃深呼吸や、軽い運動、半身浴に始まり、瞑想やらサウナやら筋トレやら、昨今、書店やインターネットを覗けば気分転換の方法はいくらでも紹介されている。
🥃しかし、明確に僕の気分を転換してくれるのは睡眠か、飲酒か、そのどちらかだけだった。30分ほどヨガの真似事をした後にシャワーを浴びたとしても、プールで1km泳いだ後にサウナに入ったとしても、大した効果は感じられない。それよりも熟睡できた翌朝の方が「頭がスッキリする」し、僕の場合は、一杯目の酒を口にした時にも、それと同じくらい「頭がスッキリする」と感じるようになった。
🥃酒は直接脳に効く。
🥃そんな感覚がある。
🥃もちろん、その効果も長くは続かない。酒好きの方にはご存知の通り、一度飲みだすと歯止めが効かないのがアルコールである。一時間も飲み続けていれば、「ほろ酔い」の域を超え、気分の向上よりも、脳機能の低下の方が前面に出てくるようになる。
🥃それでも、無気力状態で何もしない一日を過ごすよりは、たとえ一時間だけでも行動的に過ごした方が、有意義だと感じてしまう。
🥃そのどちらが真に「健康的な生活」と言えるのかは、僕にはわからない。
🥃ただ、体感として、完全に無為に過ごした一日と、酒を飲み(翌日を二日酔いで潰したとしても)一時間だけでも行動できた一日とでは、後者により大きな意義を感じ、前者の方により大きな後悔を感じてしまう。
🥃裏を返せば、本当に一日中何もしなくていいのなら、僕にとって禁酒は簡単である。
🥃外出はもちろん、部屋の掃除もしないし、音楽を聴くことや本を読むこともない、YouTube の動画一本すら見通すことができないほどに集中力が散漫な状態で、もちろん眠ることもできずに、ただ漠然と焦燥感を抱えながら布団の上に寝転がっているだけで良いのなら、休肝日を設けることなど容易い。一週間でも一カ月でも一年でも、何もしなくていいのなら僕の人生にアルコールはいらない。
🥃繰り返すが、そのどちらが真に「健康的な生活」と言えるのかは、僕にはわからない。
🥃だから、僕は今後も本当にのっぴきならない状態になるまでは飲み続けるつもりだし、アルコールとは上手く付き合っていきたいと思っている。
🥃そこで一つだけ、ある種の自戒を込めて、意識しておきたいことがある。
🥃それは、自ら進んで「アル中」になりにいくのはやめよう、ということだ。
🥃僕自身を含め、アルコール依存の傾向にあることを「ネタ」にしている人間や、それを面白がっている人間は、フィクションでもノンフィクションでも、あるいは「ネット」でも「リアル」でも一定数存在している。
🥃しかし、その姿勢はアルコールハラスメントの類と同等に唾棄すべきものであるはずだ。
🥃飲酒の強要はクソだ、なんてことを今更言う必要もないだろうが、こちらはいまだ積極的に声をあげていく必要があるように思える。
🥃アルコール依存に限らず、精神的に不安定であることを自らのアイデンティティにしている人間や、病気であることを格好がつくものとして扱う風潮は、文学や映画を筆頭にいまだ根強い。「モーレツ」の時代が過去になったいま、むしろ不健康をアイデンティティとする層は増えているように思える。
🥃不健康な状態に陥ってしまうことは仕方がないし、そうなってしまった自分を責める必要は全くない。誰もが何かしらに依存して生きているのは事実だし、何かに依存することや、精神的に不安定になることは、弱いことでも間違っていることでもない。そして、それに寄り添う存在は、創作物であれ現実のムーブメントであれ、絶対にあった方が良い。
🥃そのうえで、不健康であることや不幸であることが、その者にとって「正しい状態」であることは絶対にない。
🥃これは、ある種のペシミズムや希死念慮についても言えることだが、自身が不健康であることは、同じように不健康に苦しめられている人間の味方であることと同義ではない。「優しい」人や「真面目」な人ほど精神を病むことが多い、あるいは「繊細」な人間や「頭の良い」人間ほど鬱病の傾向にある、という言説が流布しているが、その可否についてはここでは争わないにしても、少なくとも、精神を病んでいることや不幸であることが、優しさや真面目さの証明にはならない。
🥃百歩譲って「痛みを知っていること」自体には意味があるのかもしれないが、それは人間が痛みの中に身を置き続けなければならない理由にはならない。
🥃精神を病んでいてこそ本物である、といった価値観は、倒れるまでやらなければ本気でない、などと言って、児童に体罰を加え続けているマチズモ教師の思考と同じだ。
🥃僕はそれを積極的に否定したいと思っている。
🥃実際にそれは痛々しくて見ていられない。
🥃痛みや苦しみから逃れることは、それに苦しんでいる他人や、あるいはそれに苦しめられていた過去の自分に対して、無理解になることとイコールではないし、自分の幸福と健康のために行動することは、不幸な者や不健康な者を置き去りにする行為ではない。シンパシーは重要かもしれないが、「仲良く貧乏」を選ぶ価値観は、協調性を重んじる学校教育が、多くの児童の可能性の芽を摘んでいったことと同じように、本来実現可能であったはずの幸福と健康を、難しいものにしてしまう。
🥃僕はいまでも毎日飲んでいるし、この文章も酒を飲みながら書いている。
🥃それでも、僕はいつでも健康かつ幸福でありたいと思っているし、だからこそアルコールについても自身の健康と幸福のために飲んでいたい。
🥃酒に酔うのはまだしも、不健康な自分の姿にまで酔っていたくはないのだ。
書き手:川島 航
出典・解説
アルコール依存症の症状.アルコール依存症治療ナビ.
アルコール依存症とは.新生会病院.
F, S, Fitzgerald(1937)An Alcoholic Case. Esquire.(村上春樹(訳)(1980)アルコールの中で.In:スコット・フィッツジェラルドーアメリカン・ドリームの崩壊と再生.中央公論社.)
井上岳一(2008)「美しい」が選ばれる企業の条件となるー経営美学試論(2).日本総研
厚生労働省 (2000)アルコール.
焼酎25度.TOPVALU(トップバリュ).
横山顕(2022)アルコールと肝臓病.厚生労働省e-ヘルスネット.