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『みどりいせき』書評/川島航


 代謝がなければ肉体の節々が壊死していくように、あるいは長期政権や一党独裁の類が必ず腐敗するように、新しい細胞・組織の製造が、人間個人・そしてそれら総体である集団全体が存続するための絶対条件であることは間違いないが、それは当然「小説」という営みにおいても同じであり、「新人」の発掘がその活動の本質と言えるだろう。

 今回、「第47回すばる文学賞」を受賞した大田ステファニー歓人による「みどりいせき」も、現代文学に新しい風を(空気を・酸素を)提供し、その息を伸ばした重要な作品であることは間違いない。

 既に一部のSNSで話題になっているように、いわゆる「若者言葉」やスラング、隠語の類を多用した文体が目を引くが、当然ながら、それは本作を彩る要素の一つに過ぎない。実際に、著者はインタビューにおいてこう述べている。

…(前略)…小説って、プロット、構成、文体、セリフっていろんな武器があるけど、それよりそれぞれの要素の制御をするセンスのほうが大事。センスって誰かと比べてつまんないか面白くないかじゃなくて、ただ強度の問題じゃないすか。どんな人だってそれぞれ自分にしか書けないものがある。自分のセンスを弱くしか出せなければ人と似ちゃうし、強く出せれば人と比べても個性が出る

 まさにその通りで、本来他者と比べることのできない絶対的な「センス」というものを、大田ステファニー歓人は、本作において遺憾なく発揮している。それは勿論、「プロット、構成、文体、セリフ」を巧みに扱えているからこそなのだが、それら個々の要素が見事に噛み合った結果、本作は不可分な一つの大きな波として読者の胸に迫ってくる。

 本作の内容を端的に言い表すことは難しい。あらすじを簡単に述べるとすれば、「学校に馴染めない高校生が、再会した幼馴染と共にドラッグ売買の現場に足を踏み入れ、そこに居場所を見出していく」といったところだろうか。これだけ聞くと正直新味のあるストーリーとは思えず、むしろ現代の「純文学らしい」設定とさえ思えてしまう。しかし実際に本作を読んだ者にはわかるだろうが、本作はこれまでにない新鮮な読書体験を我々に与えてくれる。

 奥泉光は選評でこのように述べている。

ドラッグを手段に秩序に反抗し、ささやかな連帯を模索する若者たち、と云うふうに物語をまとめると陳腐になってしまうが、切実で物哀しい心情の手触りがそこにはあると思えた。

なるほど、確かにこの物語を無理に要約しようとすれば陳腐なものになってしまうが、つまるところそれは要約不可能な「切実さ」が細部に宿っているからだと言えるだろう。もう一つ、今度は堀江敏幸の選評から引用する。

薬物売買に手を染めている高校生たちのだらしない受け身が、批判も擁護もなしに、取引の隠語やネットスラングを駆使した文体で描かれていく。

 「批判も擁護もなしに」とは言い得て妙で、実際に、本作ではドラッグという非合法なアイテムが物語の中核を担っているが、その描かれ方は「批判も擁護もなしに」、退廃的でもなければ享楽的ともいえない絶妙なバランスを保っている。

 彼らがドラッグを使用する際にフォーカスが当てられているのは、ドラッグそのものではなく、その場にいる彼らの「人間関係」、「繋がり」だ。それはドラッグなしでも成立するのだが、しかしドラッグによってほんの少しだけ彩られている。同じ場を共有し、同じ音楽を聴きながら、同じドラッグを(「ジョイント」や「ボング」を、「ペン」や「紙」を)を分け合い・回し合う。ドラッグは連帯ための一つの道具に過ぎず、それ以上の不要な意味付けは行われない。それを「センス」と呼ぶのかは定かでないが、ドラッグに限らず、作中に登場する様々な事象に対する「視線の向け方」や「描き方」が、通り一遍等ではないと感じさせられた。

 例えば、主人公である桃瀬の家庭は、父親が早くに他界し、母子家庭かつ「貧乏」であることが示されているが、それが作中で悲観的に強調されることはなく、母親との関係性もフラットに描かれている。良好とも劣悪とも言えない家庭環境と、常に慮っていながらも、また同時に疎ましくもある親との関係性を、美化も露悪もなしに書き込んでいると言えるだろう。以下に、主人公の母親に対する考えを引用してみる。

 僕は感謝してるし、しきれないし、その気持ちもたまに伝えるんだけど、自分だって好きにしたらいいじゃん、とかって気持ちも同時に抱いちゃうから複雑で、それに家族とはいえそれぞれの人生もあるっちゃあるわけだし、僕だって好きにしていいはず。なのに、その好きにした結果がお母さんをさみしくさせてんならお腹痛いし、たかだか植物ごときで僕が捕まったりなんてしたらお母さんはひとりぼっちになるのかも、って考えるとこわくなる。でも、じゃあどうすりゃいいの、っていうか、つまりお母さんとどう接していいのかわからない。わからないことは少し寝かせたいから僕は家に帰ったとしてもなるべく眠るだけになっていた。

 本作のように若者同士の関係性を描く物語において、家庭や親の存在はどうしてもノイズになりやすいものであり、主人公を抑圧し・対立する存在として描かれることも多いだろう。しかし、本作ではそのような陳腐な抽象化は行われていない。

 また、そのような家庭に対する態度を筆頭に、主人公・桃瀬の人物像には一々新しいものを感じさせられる。例えば、彼は学校に馴染むことができず、頻繁に授業をサボっているが、その内面がステレオタイプな「不良」としてキャラ付けされることはなく、授業をサボるたびに彼は高校生らしい等身大の後ろめたさに襲われている。彼が校内において明確ないじめに遭うこともなく、クラスメイトの一人に目をかけて貰いながらも、しかし、確かに周囲から疎まれる存在であることがわかる描き方も見事だ。加えて、彼が「痛み」や「死」というものを素直に恐れている点にも注目すべきだ。冒頭、二言目には「みんないつか死ぬ、ってことくらい意味わかんないし」という言葉が出てくるが、本作の主人公は常に「死」を恐れている。終盤、LSDと思われる薬物で「意識がめくれた」際にも、彼が泣きながら恐れるのは「死」だった。文学にありがちな希死念慮に無闇に傾倒することなく、彼は「死」に対するアンビバレントな渇望すら持ち合わせずに、純粋に「死」を恐れており、現に、「いや、だから、死んだら愛もクソも何もないんだし、なんか虚しいなって」という台詞で幼馴染の春と真っ向から対立している。

 ここまで記してきたように、ドラッグの描写や主人公の人物像は常にフラットな視線で描かれているが、それとは対照的に、本作における「青春」の描き方は正直「くさい」と感じてしまうほどにわざとらしい。序盤に自転車で春のペニーを牽引するシーンや、その前後で二人乗りをする場面などはわかりやすく画になるし、その他にも、一度は自ら相手を拒絶した桃瀬が涙を流しながら仲間に迎え入れられる場面や、暴力に心を折られて引きこもっていた際に仲間が窓ガラスを割って連れ出しに来る場面など、本作の青春描写には過度な「人間賛歌」的価値観が見受けられる。

 ここに、本作における唯一の美化がある。それ以外の要素が、一般的な感性に回収されることを巧みに避けているために、このやりすぎなまでの青春描写が意味を持ち、ラスト、教室での春の投球シーンに繋がる。これまでに描かれてきたすべて、美化された出来事も・フラットに描かれていた出来事も含めたすべてを経験してきた桃瀬が放つ、「本気で投げて」という台詞に重さが乗り、また、それに応えるべくして春の全力の一球が彼のもとへ投げ込まれる。
そして同時に、著者の「センス」を込めた一球として、この物語自体がストレートに読者のもとへと投げ込まれる。それを受け止められるか、そしてその球を食らった後に何を思い浮かべるのかは、我々受け手の「センス」にかかっているのかもしれない。


書き手:川島航

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