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仲が良くなる喧嘩の仕方 & 幸せを感じる秘訣

今回もいただいたご質問2つにお答えしていきます。いつもありがとうございます。

彼女とケンカして仲良くなる方法は?

「岸さん、いつもvoicyでタメになる情報ありがとうございます。僕はよく彼女とケンカっぽくなってしまうのですが、男女の仲が深まるケンカの仕方みたいなものはあるのでとしょうか? ケンカで彼女もスッキリしている部分もあるようなので、お願いしたいです」

ということで、ありがとうございます。ケンカというのは様々なシチュエーションがあると思いますが、ものすごくベーシックなところでいうと自己承認欲求の問題だったりするんですよね。わかりやすくいうと「おまえ、俺のこと認めろよ」、「ねえねえ、あなた私のこと認めてよ」というその「認める」、「認めない」みたいな問題が大きいです。ほぼこれなのではと思っています。

なので、スッキリするのはお互いがお互いのことを言い合って「ああ、わかった」「俺は俺の言い分があるけれど、あなたの言い分もよくわかった」と、ケンカの落としどころ云々よりも、相手の存在や相手の主張を認めることがスッキリとケンカしていくコツだったりしますね。

このご質問の方はケンカのあとで彼女さんがスッキリされているということは、言ったあとにちゃんとこの方が彼女の承認欲求、彼女の存在や彼女の気持ちというものを承認している。認めていっているからスッキリしているんじゃないかと思うんですよ。

やはり赤の他人同士ですからね。育ってきた環境も、考え方や価値観も違うわけですから、そこはぶつかるのが僕はあたりまえだと思っています。僕自身が注意をしていることで、これいいなと思うのは、ケンカしていることについて、それは価値観が違うこともあるでしょう。けれど、それを言っている、相手の存在だけは認めていくということ。それによりケンカの後腐れもなくなると思います。

また僕は野球ファンなので、いつも野球にたとえてしまい申し訳ないですが、僕は中日ドラゴンズファンです。たとえば彼女さんが広島カープファンだとしましょう。合わないですよね。僕の中には青い血が流れていて、彼女の中には赤い血が流れているわけじゃないですか。ここで「いや、やっぱり中日でしょ!」、「いや、やっぱり広島カープよ!」とやっても、これはケンカになっていくばかりですよね。

こういうケンカって多いと思います。お互いの主義主張が違いますし、あるいはお互い個々正論、みたいなことになっていくので。ここで落としどころを見つけて、「じゃあ中日も広島カープも辞めて、巨人を応援するか!」とか「タイガーズ応援するか!」、「ヤクルト!」、「横浜!」とか全然だめですよね。「そういう問題じゃないから」というふうになっていきます。

そのときは、彼女が広島カープファンだということを認めることが大切です。「わかった」と。「あなたが広島カープファンだっていうことはわかった。そして、どれぐらいカープを愛しているかもわかった。カープを応援しましょう!」と。「僕、中日と戦っていないとき以外はカープ応援するから!」というと「わかった」と。「中日対広島のときだけは、もう別々に野球見ましょう」と。「その日だけは野球の話をするのはやめましょう」みたいな落としどころも出てくるわけですよね。

そのためには、彼女の「承認してほしい」を認めていきましょう。僕もそうです。男女共にありますからね。「承認してほしい」、「認めてほしい」というところを認めていく。すると、ケンカがいいケンカになる。ケンカはケンカかもしれないけれど「言ってよかった」、「この人と一緒にいてよかった」ということになります。そうなる機会が僕は多かったので、ぜひ参考にしてみてください。


生きることがつらいとき、幸せを感じるには?

「いつも楽しく聞いています。目標の叶え方のご回答ありがとうございます。先生の目標をもって、それがかなったら幸せをまわりの人におすそわけする言い方がとても素敵だなと思いました。また1つ先生を好きになりました。実は、私は体調不良により休職をしております。いろんな健康法を試すのですが、なかなか芳しくはありません。私はさみしがりやの死にたがりやさんなので、その意識が治療の足を引っ張っている気がしています。こんな私でも長生きしたいと思える幸せを見つけるためにはどうしたらいいですか?」

ということで、本当に身につまされるようなご質問ありがとうございます。なんていうんですかね。この「さみしがりやの死にたがりやさん」。僕自身、めちゃくちゃ明るくてポジティブに見えますけど、結構さみしがりやの死にたがりやさんの部分が強かったりするんですよ。なので、すごくこの方のおっしゃっていることわかります。その僕がどうして今でもちゃんと生きようと思っているか。

こう言うと、本当にみんなから「いや、そんなことないでしょ」と。「あなた、めちゃくちゃ楽しそうに生きているじゃないですか」と。「人生充実しているじゃないですか」と言われることが多いんですがそうでもないんですよね。くどくど語りませんけど、僕の中にもこの「死にたがりや」の部分は小さくないんだという前提があるとして聞いてください。

どうして僕が今も生きてこういう生活をしているかというと、自分の中で自分に言っていることがあるんですよ。世の中には業(ごう)というものがあります。僕はそう信じています。その業というものの中で生きている。もっというと、僕の業は僕だけが背負っているわけではない。僕の、たとえば子供たちとか、僕のまわりにいる人たちも僕の業を共有している感覚があるんですね。

ということはですよ? 僕がたとえば自分でみずから命を絶ってしまうと、僕の業は僕の子供たち、まわりの人たちに移ってしまう。これは自分で責任がとれないことですよね。僕が僕だけで責任をとれるものであれば、まだ自分で決めることもありますけど、そうじゃないんだぞと僕はなんだか自分で思っていたりするんですよ。

なので、僕が頑張っていく、あるいは僕がいることによって少しでも「あー、この世の中っていいんだな」と思っていただける人がほんの1人でも2人でもいてくださるのであれば、その分、善良じゃないかもしれないですけど、僕はこの世の中に少しいいことをしたのではないか、と。その積んだものは僕ではなくて、これから僕に関わる人、僕の子供、まわりの人たちにいい影響を与えると僕は信じています。なので、僕が一生懸命やっている、僕が頑張っていることは僕のためではない、というようにいつも思っています。

そして、頑張って笑顔の人が増えていく、自分の中に頑張ったという実感があるということが僕は幸せだなと感じています。ただ、つらいですけどね。幸せにできなかったときは、悪い業がくるんだと思って、へこたれてはしまいますけど、僕はそう思っているという話です。

これがこのご質問をいただいた方にとってぴったりくる答えかどうかはわかりません。でも自分1人では消化できないものだなと僕は思っているので。であれば、まわりのため、誰かのため、そう思うことによって、なんとか自分も前に進めていっている、みたいなことがありますので。ちょっとでも参考になったのであれば幸いです。ご質問ありがとうございました。



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