次の予定。
金がない。友もない。そもそも何かをしようという気持ちがない。生きるのに必要なエネルギーを、子供時代に使い果たしてしまったのだ。だからずっと家にいる。自ら進んでそうしているというわけではなく、他に選択肢がない(少なくとも私には選択肢があるように思えない)のだ。
予定がない。あまりにも予定がない。私に待ち受けている予定はたったひとつ。生きとし生けるものすべての終着駅である「死」だ。
この感覚は昔からあった。遥か遠くに「死」が見えていた。すべてがそこに収束してひとつの点になってしまうほど、ずっとずっと遠くに見えていた。途方もなく離れているのにもかかわらずそれが「死」なのだということを私は直感的に分かっていた。
ある時、点のように見えていた「死」が少し大きくなって見えることに気がついた。どうやらそれは、少しずつ近づいてきているようだった。
初めてその点を確認してから二十年近くが経過した。点はもう点ではなくなっている。地球の裏側まで行っても逃げられないのであろう、巨大な壁となり、今も少しずつ近づいてきている。
本当は誰の身にも同じことが起こっているのだろう。しかし、ほとんどすべての人には、それとは別のたくさんの「予定」がある。その予定は大抵の場合「死」より手前にある。すぐそこにあるさまざまな予定で、最後の予定が見えなくなっているのだ。
現実と向き合うほど「死」という最後の予定から目を逸らすことになり、私のように現実逃避ばかりをしていると、かえって最後の予定という現実から目を背けることができなくなる。
皮肉だ、と思った。
学校へ通えば悪口に陰口に暴力を受けて、家に帰れば「お兄ちゃんなんだから」と弟たちの分まで叱られた。子供時代の私の世界のすべてであった学校と家庭で板挟みに遭い、こんな現実は嫌だと目を背けると、もっと辛く、絶望的かつ絶対的で、キャンセルのできない予定が、じわりじわりと近づいてくる。
ほとんどすべての生命エネルギーを子供時代に使い果たしてしまった私は、遥か彼方の小さな点が、空をも埋め尽くして辺りが真っ暗になってしまうほど巨大な壁となって迫ってくるのを、ぼんやり眺めていることしかできない。