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うつわ 人器と天器 その5

安岡正篤先生著の『朝の論語』に下記のような文がありますので、かい摘み掲載いたします。人器を読み解く参考になれば幸いです。
 あれは人物だとか、あれは人物ができてない等と言いますが。学問にしても産業・政治・教育にしても、人物のあるなしで価値や運命が決まってしまいます。人物たるには気力・身心一貫した生命力が必要です。身長、肉づき良い体格などは関しないものです、一見鼻っぱしが強くても、事に当って意気地の無い状態を、「客気」と言います。すぐ消えて無くなる気です。物静かで、弱々しい感じでも、事に当り、非常に粘り強く、忍耐力・実行力に富んだ人がいます。これは、孟子に名高い「浩然の気」「われよくわが浩然の気を養う」(公孫丑上)。気力・生命力が養はれないと、事に耐へません。いくら理想や教養があろうと、単なる観念や感傷・気分、そういったようなものになってしまい、傍観主義者・逃避主義者・妥協主義者といったような意気地のないものになってしまいます。
 大切なものは志、志気・志操・志節です。これは当然気力から出て来るもので、そもそも気力というもの志は、生命力・気力の旺盛な所産です。氣は単なる生気から進んで志気となり、これが現実の様々な矛盾抵抗にあい、容易に挫折したり消滅したりすることなく、一貫性・耐久性を持って操というものになり、節というものになるのです。単なる気力は「志気」となり「志操」となり、「志節」となります。現実の矛盾、現実の抵抗に屈しない意味では「膽気」と言います。
 この志が立っに従って、人間が本来具有してをる徳性・理性により、「反省」というものが行はれ、何が執り行うべきことか否かの判断・決定、すなはち「義」と、単なる欲望の満足にすぎぬ「利」との弁別が立ちます。我々の実行と離れることのできない性質のもので、これを道義と言います。これに反して単なる欲望の満足にすぎない、志・理想の害となりやすい性質のものを、利と称し、これを義と利の弁と言います。利が義と一致するほどほんとうの利で、義こそ利の本である、利は「義の和」であるということが、賢人によって明確に教へられてます。価値判断力・判別能力を見識とか識見と言います。見識は単なる知識と違います。知識は、本を読んだり講義を聞いたりすれば、幾らでも知識は修得することができますが、それだけでは見識というものになりません。理想を持ち、現実のいろいろな矛盾・抵抗、物理的・心理的・社会的に貴重な体験を経て、生きた学問をして来ませんと、この見識・識見というものは養はれません。人物たるには、この見識が大事であります。特にそれが現実の様々な矛盾や悩みに屈することのない実行力、決断力を持つ時、膽という字を応用いたしまして、膽識と言います。膽気と見識との中和です。
 人間は漸く現実の生活・他人・社会・種々なる経験に対する標準が立って参りますと、尺度が得られ自分で物をはかることができるようになります。これを物指しや量にたとへ器度・器量といふものができます。器量人になります。人生のいろいろな悩み苦しみをも受け入れて、ゆったりと処理して行けるのであります。この器度・器量、これを結びつけまして「器識」とか、「識量」とも言います。世の中には識量・器度の大きな人がおります。人間内容が人生の体験を積んでだんだん磨かれて参りますと、それだけ深さ、確さ、不動性などを大きくして行きます。「命を知る」、「命を立つ」、「命に達す」などと言います。ここに「信」という徳ができ、信義・信念・信仰となるります。人は真実に到達し、空夢ではない実在を信じ、有徳を信じ、よく現象世界において乱れず、一切を浄化し、向上してゆく、真の道徳を養うことができます。
 知を頭脳の論理とすれば愛は心腹の論理です。万物と共に生き万物と一体になって、天地の大徳である「生」を育てようとする徳を仁と言います。仁愛は悩める衆生に対して限りない慈悲となります。この慈悲・仁愛の心は人格のもっとも尊い要素すなはち徳でありまして、智慧・信念と相まって人を神聖にするのです。人間は必ずしも知の人でなくてよろしい。才の人でなくてもよろしい。しかしどこまでも情の人・愛の人でなければなりません。
 こういう人間の諸内容、もろもろの徳が和合して参りますと、宇宙も生命人格も一つのリズム・風韻をなして来ます。人間そのもの、人格自体が、どこか音楽的なものになって来ます。これを、風格・風韻・韻致などと称します。つまらない人間ほどがさつである。騒々しい。また偏した人間、頑固な人間は、とかく物に拘はる、ぎごちない。人格ができて来ますと、すなはち人物になって参りますと、どこかしっとりと落ち着いて、和らかく、なごやかに、声もどことなく含み・潤ひ・響きがあって、その人全体がリズミカルになるものであります。すなはち風格・風韻・韻致というようなものができてくるのであります。こういう内容が。具わって参りまして、それが自ら何となく外に現はれて、厭応なく人の認識に上る。この時に人物というものが決まるのであります。あれは人物である、あれは人物ができてをる。あれはできてをらぬというようなことが自然に言はれるのであります。そうなって参りますと、なかなか人物というものはありません。人間と申しましても、万物の霊長とは言いながら、あまり霊長の方は長じませんで、とかく動物的に堕落し易い。どうしても学問修養の必要な所以であります。

                                  つづく

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