至るを知りて此れに至る

   至るを知りて此れに至る
 最近、想定外や真逆、あり得ないなんて言葉をよく耳にする事が多く残念な気になりますし、日本民族の気の緩みや刹那的行動に唖然とさせられます。
 
安岡正篤著『呻吟語を読む』
    無知なればこそ偶然に惑う
 当然あり、自然あり、偶然あり、君子は其の当然を尽くし、其の自然に聴せ、而して偶然に惑わず。小人は偶然に泥み、其の自然に払って、而して其の当然を棄つ。噫偶然なるもの得べからず。其の当然なる者を併せて之を失ふ。哀しむべきなり。(應務)

 みんな偶然ということになったら、本当の偶然というものがわからなくなってしまいます。自然というものをよく人間が研究すると、自然のなかに必然、あるいは当然(当に然るべし)の法則を発見するものである。ところが、その自然の研究が足りないと、自然のなかの必然、あるいは当然の法則がわからないので、人間は当然を偶然と錯覚する。そこに偶然ということが起こってくるのであって、要するに偶然というのは知識の欠如を表すものである。
 だから人間のできた人は自然の法則をよく研究し、そこから人間としてどうしなければならぬかという当然を尽くして、そうしてたまたまその知識が及ばないで思いがけないこと、つまり偶然が起こっても、それは実は必然であり、当然なのである、自然に対する研究が足らなかったからわからなかったのであると考えて、その偶然に惑わない。ところが小人はそこまで徹しないから、偶然にとらわれ、自然にもとって、そうしてわれら何をなすべきやという当然を棄ててしまう。それでは偶然というものがわからない。しかしながらその小人のなずむ偶然は文字通り偶然で、これは予めわからぬものであるから、かなしい不安なものである。

と、言った文章があります。少し難解なこの文章の『偶然』の文字を真逆とか想定外という文字に置き換えて見ると下記の様に成ります。

 みんな真逆(想定外)ということになったら、本当の真逆(想定外)というものがわからなくなってしまいます。自然というものをよく人間が研究すると、自然のなかに必然、あるいは当然(当に然るべし)の法則を発見するものである。ところが、その自然の研究が足りないと、自然のなかの必然、あるいは当然の法則がわからないので、人間は当然を真逆(想定外)と錯覚する。そこに真逆(想定外)ということが起こってくるのであって、要するに真逆(想定外)というのは知識の欠如を表すものである。
 だから人間のできた人は自然の法則をよく研究し、そこから人間としてどうしなければならぬかという当然を尽くして(易経では時中と言い、時中は通る言います。)、そうしてたまたまその知識が及ばないで思いがけないこと、つまり真逆(想定外)が起こっても、それは実は必然であり、当然なのである、自然に対する研究が足らなかったからわからなかったのであると考えて、その真逆(想定外)に惑わない。ところが小人はそこまで徹しないから、真逆(想定外)にとらわれ、自然にもとって、そうしてわれら何をなすべきやという当然(当然やらなければならない事・今、当然出来うる事・時中)を棄ててしまう。それでは真逆(想定外)というものがわからない。しかしながらその小人のなずむ真逆(想定外)は文字通り真逆(想定外)で、これは予めわからぬものであるから、かなしい不安なものである。

 どうでしょう?置き換えただけでなんと無くニュアンスが掴めるのではと思いますが?
 自然界で起こり得る事には、マサカ・あり得ない・想定外と思えるような出来事でも全てが真実そのものです。その自然界の法則の一つに、種を蒔かなければ、花咲かず、実らずと云う事があります。これは、当然の結果でありますから必然です。朝顔の種を蒔けば朝顔の花が咲くのが自然法則。当然であり必然です。原因と結果ですから、因果とも言います。此処に一つの法則が存在しているのは事実です。我々は原因を創り出す事や選択する事は可能ですが、結果に関しての選択は何人たりとも出来ない事であり、自然界の鉄則です。朝顔の種を蒔くといった原因を創れば、朝顔の花が。向日葵の種を蒔けば、向日葵の花咲くといった結果が、朝顔の種を蒔いて向日葵が咲く結果となることは、自然界には存在しません。これは、当然の結果であり必然です。しかし、よく考えてみて下さい。知らない事では有りましょうが多くの人は、病の時に何故か?病の種を、不幸の時に不幸の種を蒔こうとしているのです。その当然の結果として不幸の実や病が花を咲かせるのです。これは必然ではないでしょうか? それなのに、その出た当然の結果なのに想定外(真逆)と動揺して、出来ない・出来なかった理由探に必死に成り、疲労困憊してしまう。ある映画のシーンで「人生には三つの坂がある。一つは上り坂・もう一つが下り坂と三つ目が真逆(まさか)」と言っておりました。しかし、人生に於ける真逆(想定外)とは、知識の欠如・危機管理能力不足の状態であり、これでは、人生たち行かなく成ります。ですから私は、真逆や想定外といった言葉は使わない様にしております。氷山モデルと申しますが、人は氷山の一角だけを見て、氷山だと行っているのです、これは、観方、感じ方の問題で、氷山の一角を見るのではなく、水面下の隠れた部分を観る力を育成しなくては成りません。正面から観る、裏面から観る、両側面から観る、上下からゆっくりと観る習慣を着けるのです。世の中は、陽もあれば陰も在ります。陽だけや陰だけでの世界は存在しません。陰陽の四原則である、陰陽の対立・陰陽の消長・陰陽の転化・陰陽の同根を絶えず意識することで、氷山の全体を見通せるゲシュタルト心理的観方へと変化して行き、この習慣が身に着くと、多くの事が想定内の範疇に収まって来るのです。
 易経に『至を知りて此れに至る』という言葉がありますが、想定内が増えてくれば、想定できた事柄に対して予め、それに対して当然遣らなければならない事、今の自分に出来ることが見えてきますので準備が出来ます。そのときにピッタリした事を遣るのを『時中』と申しますが、時中は何処までも通って行きます。今がどのような状況下でも、それだけで良いのです。譬え人生に試練が訪れようが、病が降り掛かろうが、今、遣れる事・遣らなければならない事を遣る事が、時中だと思います。
 この身に病が降りかかった時、試練が与えられた時、驚き・怒り・怯え・不貞腐れ・マイナスの種しか蒔けないのでしょうか?それが当然なのでしょうか? 私は、困難に遭遇した際には、気が挙がるので先ずは深呼吸(收功)して昇った気を臍下丹田に降ろす(気沈丹田)事をしなさいと教えています。気が降り、周りをゆっくり見回すと、その時の時中が見えて来ます。それを実践すれば良いのです。予め想定されているのなら難しい事ではありません。難が有るから有難い有ること難しなのでしょうね。
 これは、予め結果も想定できますから、至るを知る(プラスの結果もマイナスの結果も想定済み)ですから此れに至ります。それが当然であり必然ではないでしょうか?

いいなと思ったら応援しよう!