感謝とお陰様
久々に井上陽水の『断絶』と云うアルバムを引っ張り出してiphoneに同期して聴いている。アルバム中に『感謝知らずの女』と言う歌が有り、私の耳に飛び込んできた。感謝知らずの女どころでは無い、現在の日本人は以前と比して一億総、感謝を忘れてしまってるのではないかとも感じられ、思わず顔を赤る。
私は、常日頃から、「ありがとう」「お陰様」が直ぐに云える自分作りを提唱している。今では、『ありがとう』はブームとなり定着している様であるが、一方で『お陰様』は死語に成りつつあり、寂しさを感じてしまう。感謝の気持ちはお陰様を感じて始めて発生する気がする。畏敬の念やお陰様は、個人主義や誤った自由主義の下では芽生えないのだろうかと感歎してしまう。
下記の論語がある。
孔子曰わく、君子に三畏有り。
天命を畏れ、大人を畏れ、聖人 の言を畏る。
小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎れ、聖人の言を侮る。
華氏第十六-8
孔先生がおっしゃった。「君子には三つの畏れがある。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言葉を畏れることだ。小人は天命を知らないので畏れない。大人になれなれしくして、聖人の言葉を侮る」。
「君子には三つの畏れがある」この場合の「畏れ」は、「畏れ敬う」「畏敬の念を抱く」といいますが、同様に敬う気持ちが含まれています。君子が抱く三つの畏れは。「天命」人の力の及ばない、目には見えない大きな天の力。「大人」高い地位に就いている人格者。そして、三つ目が「聖人の言」、立派な先人の残した言葉です。君子は、人の力の及ばない天から与えられた使命を、畏れ、敬い、それを実践しようとし、優れた人物である大人を畏れます。さらに、聖人の言を畏れます。徳の備わった立派な人物の言葉だからこそ、真剣にに受けとめようとするのです。つまり君子は、先人の優れた教えに自分が違わないようにと、畏れ敬います。小人は、一人ひとりが与えられた天命には、深い意味があることを理解していないので、自分の好き勝手に振る舞います。また先人たちの偉大さを軽視し、なれなれしい態度でつき合おうとします。聖人の言葉を、自分には関係ないものだと決めつけ、馬鹿にしてしまいます。このように君子とはまったく逆のことをします。君子の大きな特質は、謙虚であるということ、決して、驕った態度をとりません。ここに述べられた三つの畏れも、謙虚であるからこその言葉です。
孔子は、天がすべてを決めていると考えています。季節がうつろい、動物も草木も命あるものすべての営みは、天のもとにあるのです。もちろん、人間もその中の一つです。だから驕った態度をとってはいけないのです。
福と偪という字が有ります。何方もふくと読めますが、旁(つくり)の畐の横が「礻」(しめすへん)なのか「亻」「にんべん」かで意味が違ってきます。「礻」は文字通り示しております。何に何を示したか?神に示したのです。何を?が、旁の畐の成り立ちに有ります。最上部の一は〆縄で(陽気盛んを表し)下の口と田の重ね文字は米俵を積み重ねた形象文字で成り立ったものです。米俵を供物として神に捧げられた事を福としました。所謂、稲荷信仰です。
私は、子供の頃に祖父母達から「ご飯は、一粒も残したらダメよ、お米という字を見てごらん、上に逆さ八、下に八、真ん中に十という字があるでしょ、これはね、農家の方が八十八の難儀を乗り越えてやっと出来た物だからよ」と。
籾〜苗~稲〜実りの秋から収穫へと時が流れる間には、病害虫や日照り、水害や台風などのリスクを乗り越えてこんなに実りました。しかも一粒から何粒米と変化を遂げ『実ほど首を垂れる稲穂かな』と成ります。倍返しどころでは無い(私の最も嫌いな言葉だが)一粒で2度美味しいどころか十倍いや何十倍以上にもなって戻ってきてくれる。この有難さ、人智の及ばない奇跡に近い恵みに、お陰様を感じ感謝を捧げたのが文字通り稲の荷の神社、稲荷神社です。自分が苦労したのだから俺の勝手とは思わず、自分の心掛けによって神の前に差出す事の出来る蓄積、これが本当のしあわせです。自分の努力や心掛けによらずに偶然に得たものは、それは幸であって、福ではありません。
これが「亻」「にんべん」の偪に変わりますと、偪という字はふくとか、ひつ、ひょくという音があります。偪はせまるという意味で、自分の持つ財産、地位、名誉などの蓄積で、どうだい俺は偉いだろうと、人にせまることです。更に倒れる。ひっくり返るという意味に使います。人間、柄にもない地位や財産などを持つと、威張って、そしてやがて自ずからひっくり返ります。「亻」「にんべん」と「礻」(しめすへん)ではこの様な違いがあります。優秀なリーダーや為政者の条件の一つに謙虚さが指摘されますが、これは様々なお陰様気づき『現在感謝』出来る人だから謙虚さが身につくのでは無いかと思われます。
考えてみますと、我々は何一つとして一人で出来ることは、不可能に近い物があります。陰ながら支えてくれる様々な人達のお蔭様があり、今ここに存在します。この世に産み落として頂いた父母のお陰、家族や友達、導いてくれた恩師のお陰、外食を作ってくれる食堂のおばちゃん、講義を熱心に聴いてくれる生徒さん達のお陰様でここにいる。感謝感謝です。
日本人は、賢いなーとつくづく思います。陰と陽、陰陽の働きを感じながら「お陽様」ではなく「お陰様」という言葉を作った人しれず働く陰の存在(目に見えない物の)に気づき感謝の念を抱いた。
なのに、昨今では、神社仏閣に行った際も感謝ではなくお願いにゆき、感謝の気持ちは忘れている。45円(始終ご縁があります様に)のお賽銭「家内安全・交通安全・学業成就etc」ご利益いただけます様に!!ここの神様は、仏様は御利益あるからありがたいよって、私にはなんだか下衆っぽく感じてしまう。御利益あるから有難いと感じる人と、平々凡々の内でお陰様を感じ取り『現在感謝』できる人では何方が幸せなのだろう?私には、平々凡々の生活の中お陰様を感じ取り今ここで感謝できる『現在感謝』できる人の方が何倍も幸せで本当の『福』なのだろうと思える。
最後までお読み頂けたお陰様を感じつつ感謝‼️感謝‼️の内に
湧泉